大事なこと




金属のあまりの冷たさに、ドアノブを持つ手が悴んで、だからと言うわけでもないけど、
何故か家に入りたくなかった。

若干の恐怖と緊張を抑えてゆっくりとドアを押し開けると、案の定鍵は開いていて。
その事に対して、安堵と罪悪感の混じったため息をついた。





人がいるだろうにも関わらず冷え切った廊下を、なるべく足音を立てずに歩く。
今更ながら、何故自分の家なのにこんなに緊張しなければならないのか分からない。





開け放たれた元寝室のドアの前で、私は一瞬足を止め、
躊躇いがちにその部屋に少しだけ足を踏み入れ、ドアに寄りかかった。


彼の背中は相変わらずやつれていたし、数年前から変わらぬ彼の異様なほどの
集中力は、私の肌を刺激する。





「またうちの科の看護婦口説いたんだって?」


私はいつまでも自分の存在に気付かぬ彼に、焦れったくなり声をかける。
彼は一瞬だけ私の方を顔だけで振り返り、また無言で机に向かった。



「そういうの、いい加減やめたら? 見っとも無い」


私は素っ気なく言いながら、部屋の奥に置いてあるシングルベッドの上に散乱した
洗濯物をたたみ始める。





「クリスマスに朝帰りするような女にだけは言われたくないね」


しばらく躊躇した後、彼は顔を横に巡らせて私を見遣り、遠視用眼鏡を少しずらして
私に言い返した。言い返す事がなく、唇を突き出して眉を顰める。



認めたくはないが、彼の言っていることは事実なのだ。
それに反論をすることもできないし、むしろ私が彼に謝らなければならない。





「中学の同窓会があったの」


嘘ではない。中学の同窓会があったのは本当だ。
昨日の朝それを突然電話で知らされたことも。



私の心情を察したのか、彼は何も言わず若干馬鹿にしたように鼻で笑い、
そしてすぐに机へと向き直った。







クリスマスだから丁度良い、と実施された中学の同窓会。
異様なほどの盛り上がりを見せ、結局そのまま四次会にまで繋がった。

さすがに酒の強い私も、一晩中飲み明かし、体力の限界だ。



今日休暇を取っておいて良かったと思った直後、一ヶ月ほど前にしていた約束を
思い出し、同時にこんなことのための休暇ではないことも思い出した。

でもそれは、今更悩んでも仕方がないことである。



勿論同窓会のメンバーの中には男子もいた。
"子"と言うほどもう若くもないのだけれど。

無論私はクラスの中でも最上級に派手な女子で、今目の前で必死に勉強を
しているこの彼と出会った高校時代も、中学の頃と何ら変わりはなかった。





急激に変わり始めたのは高校三年生の頃だったか。
その頃から付き合っていたこの彼、三船純哉と共に勉強に熱心になっていった。


そして見事一流大学の医学部に入り、そこからしっかりと自分の夢を達成した。



外科医である純哉と、小児科医である私は、地域で最大級の病院に勤め始め、
勉強に追われていた学生時代から卒業し、それからはちゃんと二人の時間を
しっかりと育めると思っていた。




だけどお互い、勉強や仕事を重視するようになり、
同じ部屋に住んでいながら、"会えない"のではなく、急速に"会わなく"なっていった。





二人でよく話し合い、交際を止めることに決めたのは一年前。
それからは同じ部屋で暮らしながらも、別々の部屋で勉強し、別々の部屋で寝て、
今では一緒に食事を取ることすらほとんどない。





だからクリスマスくらいは一緒に食事をして、
今日実施される日本医療情報学会の医療シンポジウムを見に行く予定だった。

可愛げがないと言えばなかったし、デートと呼べるかと言えばそうではなかった。


だけど二人で出かけるのは一年ぶりだったのもあり、それを同窓会に
行くためにキャンセルしてしまったのは、やはり申し訳なかった。







「ごめん」


私は洗濯物をたたむ手を一旦止め、医学書を見つめる彼の横顔に呟く。
純哉は一瞬動きを止め、ゆっくりと私の方に首を巡らせる。



「何が」


彼は眼鏡の奥から覗き込むようにして私を見る。

本当は、何のことについて謝っているのか、分からないはずはなかったが、
しらばくれる事が、昔から不器用な彼なりの優しさなのだろう。



「今日のこと」


私は誤魔化すようにまた洗濯物をたたみ始める。彼は黙っていた。
見なくても、私を見つめていることは分かる。



「大丈夫だ。シンポジウムは一月にもある」


そう言ってまた机に向き直った彼に、そうではない、と言おうとして、やめた。

私はため息を吐きながら立ち上がり、脱ぎ捨てられた服を手に部屋を出て、
洗面所に向かった。












洗面台の鏡に映った自分を見つめ、突然虚しくなる。


普段は自分の夢に向かって頑張っているキャリアウーマンで。
そのことを私は素晴らしいと思っているし、これからもそうでありたいと思う。



だけど私はもう来年で三十になる。周りはみんな結婚していて、
子供がいても何も不思議はない歳だ。



なのに、別れた恋人と共に暮らし、仕事に明け暮れる毎日。
自分が本当にしたい仕事もまだ出来ていない。

これは本当に、自分が望んでいた未来だったのだろうか?


純哉と別れたのも、その夢を実現させるため。
だけどそれが実現出来てない今、その選択は正しかったのだろうか。




私は洗濯機に純哉の服を突っ込み、まだ鈍い痛みが充満している頭を振って、
自室に向かった。












ドアを開けてすぐに、資料が散乱した机の上に置かれている、
赤と緑の包装がされた四角い物が目に入り、私はドアも閉めずに机に向かった。

大きくて重いそれを持ち上げ、包装紙を丁寧に開いていく。



「医学書……?」


中から出てきた物は大凡期待外れの物でもあった。
だけどこれは、最高のプレゼント。


小児精神医学は、私が大学時代の頃から学びたいと想っていた分野だ。
小児科医だけど、メンタル面のケアも重んじたかった。

そんな私の夢を、彼は覚えていてくれたのだろう。



私はその本を手に持ったまま、直ぐ様隣の彼の部屋へと行こうとしたが、
その足を止め、私は自分の机に向き直った。






今は、共にいることが大切なのではない。愛を確認し合うことも重要ではない。


お互いが、お互いの夢を応援し合って行くことを誓った去年の冬を、
決して忘れてはいけないのだ。




私は知っている。そして彼もきっと知っている。
一緒にいることだけが、愛ではないことを。


私は髪の毛を結び直し、彼から貰った精神医学書を開いた。







END







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