愛しい人




張り詰めていた何かが途切れ、私はほぼ反射的に瞼を開ける。

目を閉じていた甘い世界とは違う。そこに待っているのは、ただの現実でしかなくて。





ゆっくりと、だるさの残る身体を起し、両手で顔を覆う。

異様な鋭いほどの冷たさを感じ、手を離す。
左手の薬指に嵌められた銀が、存在を主張するかのように、朝陽を浴びて光った。





一人の部屋で、口を開くこともなく仕度を済ませ、部屋を出る。
エントランスを出たところに、嫌というほど見覚えのある、その姿を見つけた。


本当なら、ここにはもう存在しないはずの彼。だけどもう、慣れたことだった。
半年以上も前から、ずっと続いていることだ。





「はよ」


小さく呟いて片手を上げた彼の口元から、白い煙が漏れる。
口を一切開かず、その横を素通りする。

彼の姿を見ることすら、今では苦しい以外の何物でもなかった。



「幼なじみに、挨拶すらできないのか?」


黙ってパンプスの踵を鳴らし続ける私の背中を、彼の声が追う。
私は足を速め、大学へと向かった。












「またあいつ居たの?」


眉間に皺を寄せ深くため息をついていた私に、斜め上から声が降りかかってくる。

当たり前のように豪快に私の横に腰掛けたのは、高校時代からの友人の剛志。
私の不機嫌な顔を覗きこんで、剛志は愉快そうに笑った。



「いい加減迷惑よ」


机上の参考書の細かい字を睨みつけ、私はペンを持ったままの右手で
長い髪を耳にかける。




「ちゃんと考えてやれよ、あいつの気持ち」


言葉に似合わず軽快に言った剛志に、眉を顰める。


あいつの気持ち、なんて考えられるはずもない。
半年以上、人の弱った心に付け込むように付け回してる、あの男の気持ちなんて。




「お前の気持ちも分かるけどよ。蒼と渚の問題は別なんじゃねえの?」


急に、剛志は神妙な表情を作る。予習に集中するふりをして、
私はある一人の男のことを思い出していた。


最愛の男だった、和泉蒼のことを。







三年前にこの大学に入学した私には、当時高校時代から交際を続けていた恋人がいた。


幼なじみでもあった蒼は、私の良き理解者でもあり、幼いながらにも私たちは、
将来を誓い合っていた。けれど、その約束の証拠に貰ったこのシルバーの指輪は、
もう何の意味も持たない。



今から八ヶ月前。私たちの前に作り上げられた幸せな未来予想図は、
一瞬にして壊された。失ったものは、大きすぎて。生活すら、できなくなった。



そんな私の前に残されたのは、彼と同じ顔で、彼と同じ声で、彼と同じ背格好で、
彼と同じ癖を持った、彼の一卵性の双子の弟だけ。




分かってる。私は逃げているんだ。だけどそれでも、渚を見るとどうしても、
蒼を思い出してしまう。もう二度と戻ってこないあの温もりを、求めてしまう。





渚は、私を好きだと言った。蒼がいなくなるまで、
私たちは仲の良い友だちだったのに。

それから私は、ほとんどと言っていいほど、渚と口を利かなくなった。



剛志は、それでもいいじゃないかと言った。
どんなに辛く悲しい過去を持っていようと、人は人で。新しい恋をした方がいい、と。

だけどこんなの、新しい恋であるはずなんてない。事実私は、蒼と渚を重ねている。
そんな恋愛、何も意味がない。そこからはただ、辛さと切なさが生まれるだけだ。




渚のことを、嫌いなわけなんてない。
何度試みても、嫌いになれるはずなんてなかった。

大事な友達だと思っていた人だし、恋人と同じ遺伝子を持っている人なんだから。


だけどそんな渚に揺れてしまう自分が大嫌いだった。
あんなに愛していたのに、今更二人を比べている、そんな自分が許せなかった。












「なぁ、空美」


講義が終わり、黙ってノート類を鞄にしまっていた私に、
剛志が酷く真剣な声で呼びかける。動き出した人たちの雑音の中に、
次の剛志の言葉が一向に拾えず、眉を顰めて彼を見る。



「もしあいつが、渚じゃなくて蒼だったら、どうする?」


貫くような強い瞳で、剛志は私を見つめる。全ての時が止まったような感覚だった。



何度も何度も、自分の心の中で自問自答を繰り返してきた。
だけどその度ちゃんと、冷静に否定し続けてきた。そんなはずがない、と。


蒼はあの日死んだんだ。確かに、いなくなってしまったんだ。





「例えばの話だよ」


固まった私の頭を軽く小突いた剛志は、いつもと変わらない笑みを浮かべる。



私は、"彼"の死に立ち会っていない。最期の言葉は、結局永遠に交わせなかった。
だからこそ、そんなこと、冗談でも言ってほしくなかった。












「残念ながら、俺は正真正銘、和泉渚だ」


昔からの憎まれ口で、渚は夜空の下、悪戯に笑って見せた。暗闇の中、
街灯に照らされた渚の鼻は、赤く染まっていた。

あまりの自分の情けなさを鼻で笑った私に、渚は笑いを収めて黙り込む。





「もし俺が蒼だったら、空美は俺のこと好きになってくれたの?」


滅多に出すことのない渚の真剣な声に、私は鞄を持っていた手をぴくり、と動かす。


答えは決まっていた。それなのに未だ私はどこか、蒼と渚を比べてる。
それでも、幾ら比べたって、二人に決定的な違いを見出すことすらできなかった。





「俺が渚だから……蒼の弟だから駄目なわけ?」


低く静かな声が、閑静な住宅街に響く。冷たい風が吹いた。
心の奥底で、やめて、と叫び声を上げる。





「俺は、俺だよ?」


噛み締めるように言った渚に、私はぎゅっと瞼を固く閉じる。
直視することなんて、出来るはずがなかった。



「やめてよ。そんなこと、分かってる」


小さく、だけど強く搾り出す。やっと口にした気持ちは、本音ではなく、
心のどこかから染み出た嘘偽りのものだった。



「……だよな」


明るく吹っ切るように言った渚は、どこか泣きそうな、歪んだ笑みを浮かべた。
寒さのせいか、その声は若干震えていた。





その言葉を最後に去っていく渚の背中を追うように、私は勢いよく視線を上げる。
呼び止めようと声を絞り出そうとしたけど、喉が焼け付くように痛くなって、俯く。

息苦しくなって顔を上げた時には、もう渚の背中は、暗闇の中に消えていた。









愛しい人の姿を見たのは、それが正真正銘の最後だった。
不思議と、蒼を失った時のような涙は、出ることはなかった。


ただただ、毎朝エントランスの前の、彼がいるはずだった空虚を目にする度、
黙って唇を噛み締めていた。







END







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