「すげぇ、これ美香が作ったの?」


小さな耳には収まりきらない程の声が、そこに隠れるように身を潜めていた夏乃の耳に届いた。
全国共通の独特な音色の鐘が二度目に帰宅を催促した、その後のことである。



「ごめんね、ちょっと苦かったかも」


低音の直後響いた甘い声に、夏乃は再度耳を疑い、罪悪感を胸に留めたままガラス越しに
自らの教室を覗く。瞬間、痛みとも似つかわしい衝撃が後頭部を殴りつけた。



美香、と呼ばれた彼女は一部から絶大な人気を誇る美女である。
彼女が作り部活の仲間に配るその菓子も、また評判になっていた。




「お前天才じゃね?超蕩けるんだけどっ」


祐樹の大袈裟すぎるとも取れる反応を聞く前に、夏乃はもう腰を上げていた。
小走りに、逃げるようにその場を去った。









他にもなく燦爛とした空気が、両性に流れるこの日。真冬の某月の十四日である。

彼女が何度も味わって来た今日の空気は痛くもあったが、好奇心をどうしようもなく
掻き立てるものでもあった。



放課後逸早く教室を飛び出した夏乃は、意中の原田祐樹を昇降口で待ち侘びていた。
緊張も何も全てを取り払い、思わず眠ってしまうような長い時間である。

級友の女子が手を振って去っていく中、必死にその中に彼を探したが、結局彼は粗方の生徒が
消えた後にも姿を現さなかった。


未だ教室にいるのか、彼女が先程自分の靴を取り出したのと類似しているそれの中に、
汚い靴が残っていた。







昇降口に辿り着いたところで、彼女は立ち止まる。古びて色褪せた校舎の中に、
彼女は一人林檎のように染まっている自分が、酷く場違いな気がしていた。












「あら夏乃、遅かったわね」


荒々しく帰宅した夏乃に、母は心配の入り混じった視線を向けるが、
彼女はそれを振り切り自室に駆け込む。





大きな音を立てて戸を閉めると、夏乃は手にしていたバッグを床に叩き付けた。
それが床に激突すると同時に、彼女の心の中で何かが崩壊する音が響く。


冬の空気に冷やされた床にしゃがみ込み、先程突き放したバッグを手繰り寄せ、
その中から強引に手の平に収まる程度の箱を取り出す。


潰してしまいそうな勢いでその包みを開くと、カカオの匂いが部屋全体を
覆い尽す程の勢いで開け放たれた。



小さな粒を指で摘み、口の中へと放り込む。
その全ての動作一つ一つが、小刻みに震えていた。


舌の上でその球体を転がし、そしてゆっくりと歯を食い込ませていく。
滲み出るように、口内で甘味と苦味が広がった。





一粒、彼女の手の甲に水滴が落ちた。雨漏りなどするような家ではない、
と天井を見上げ漸く気付く。あぁ、自分は失恋したのだな、と。


瞬く間に紅く染まった彼女の瞳を、水が包み込む。滴り落ちるそれは、

氷柱から流れ落ちる雫のようにも見えたが、それよりも幾分温かく、遥かに塩辛かった。


身体が起こすしゃくりにどう対応していいのかも分からず、夏乃は必死に目頭に力を込めるが、上手く行かず。

流れてきた涙とチョコレートの味は、いつか食べた塩チョコ味の菓子にも似ていたが、
今の夏乃にそれを味わう余裕はなかった。


残っていた数個の粒を勢いよく口に放り投げると、
夏乃は冷えたベッドに突っ伏した。












次の日はやはり朝から和気藹々としていたが、昨日のような緊張感は消え、
何事もなかったかのように穏やかな日常に戻っていた。

彼女は肩を落とし疲れた表情で階段を上っていく。昨日の光景が脳裏に蘇ったが、
瞬時にそれを思考から消し去った。



友達と挨拶を交わしながら、自身の定位置へと歩んでいく。

その隣には、既に男子だけで組まれた集団が集まっていた。その中心部にいるのは、
原田祐樹である。

彼に目を留めた瞬間、彼女の動きはぎこちなさを帯びたが、
何事もなかったかのように机上に鞄を置く。





「おっす」


机に座り込んだ祐樹が口を開く。はにかんだ瞬間覗いた歯の白さと、
小麦色の肌のコントラストが妙に浮いていた。

夏乃は俯けていた顔を上げ一度頷く。

一晩泣き明かしてもまだ足りぬ想いを抱えた彼女には、
それで精一杯だったのだろう。



「夏乃、数学のノート見せてくれない?」


彼は尚も机の上に深く腰をかけたまま、彼女に尋ねた。鳴り響いた予鈴に、
空気が動く。話をしながら席へと散らばっていく仲間を見送りながら、
祐樹も億劫そうに地に足を着け、椅子に腰をかけた。





「うん、いいよ」


彼女はいつも通りに笑って見せた。泣き腫らした目に、若干の違和感を感じながら。







END







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