言葉




「君さ、コンタクトでしょ」


隣に佇む彼女に怪訝な顔をされたのは、言うまでもなく。

自分でも、何故今更こうも下らない事を尋ねるのか、正直分からない。
ただ、咄嗟に口をついて出た言葉がこれだった。それだけの話である。




「よく気付いたわね」


明らかに馬鹿にしたように笑いながら彼女は言ったが、
その瞳が僕を捉えることはなかった。


だが僕に分かる事は、彼女が僕を見ていない、ということだけで、
それ以上でもそれ以下でもなしに。故に彼女が何を見ているのか、
ここにないように見える心が何処にあるのかなんて、解るはずもなく。





「だって君、シャワー浴びる前と浴びた後だと、目付きとか歩き方とか異様に違うし」

「意外と私のことよく見てたじゃない」


驚きを隠せない、とでもいうように彼女は言った。
その素振りは若干わざとらしくも見えたが。その一言により僕の案外繊細な心が
傷つけられる。


意外と言われる程、僕は彼女に興味がないような素振りを見せていたのだろうか。
そう自問自答し、心の中で否定、その後自己完結。





「言いたいことは、それだけ?」


挑発的な視線に、身体の中心が揺れ動くような感覚がした。
彼女の言わんとしている事は解る。それ以外に解る事はないけれど。



もう後数分で彼女は僕の隣から完全に消え去る。現に今、僕等二人で
こうして寒空の中待っているのは、皮肉にも彼女を連れ去ろうとしている電車だ。










大学に入って知り合い、仲睦まじく宜しい関係を築いてきて四年。
二人の間には何度も茶々が入ったが、その都度"友達だ"と誤魔化してきた。

決して嘘を吐いた事はない。ただ厳密に言えば、その言葉の頭に
"性交"が付くというだけで。



自分自身を注ぎ込むかのような恋愛をしていたのにも関わらず、
散々恋人に弄ばれた挙句浮気され捨てられた彼女と、
綺麗で有名だが意外とお堅いという恋人を持った、若干セックスレス気味な
盛り時の僕と。楽しいだけの付き合いだった。いわゆる遊びである。



僕は彼女を、恋人を遊園地に連れて行くような軽いノリでホテルに連れ込んだし、
彼女はアイスを食べるような頻度で僕の前に服を脱ぎ捨てた。
その事に対して最初から違和感などなかった。



が、恋愛感情を抱くなど二人の関係にはもっての外。
言うまでもなく決定事項であり、大して意識することもなく容易く実現できた。

できたはずだった。





「お姉さんに宜しく伝えて」

「うちには兄しか居ませんが」


平静を装った僕の必死な心を平気で踏み躙っておきながら、
言った後から笑いを堪える彼女は、正直憎かった。

社交辞令には、例え本心ではなくとも社交辞令らしく返しておくのが礼儀だと
教わらなかったのだろうか。





殆ど機械音に近いと思わせる程の正確なアナウンスが乾いた空気中に響く。
あぁ、懐かしいなと感じた。何せ僕はここ数年、この街を出ていない。

大学のすぐ近くに居座っている事が災いしたか、デートでさえも近場で
済ませたいという大変横着な性格になってしまい、電車に乗る回数も、
当然の事ながら極端に減少したのだ。


そこで少し、久しぶりにこの緊張感漂うホーム独特の雰囲気を
思い出させてくれた彼女に感謝しよう、と思うことにしてみた。





「元気でね」

「うん」


まともな別れの言葉がやっと口に出せたことにホッとしたか、それとも
単に自分の言葉に悪寒がしたか、不意に鳥肌が立つ。これまた新鮮な感覚である。




思えば出会った頃の彼女はこちらに来たばかりで、生まれも育ちも
この地である僕に比べたら、挙動も大分可笑しかったし、
何しろ地元青森の独特の方言が愉快だった。


そんな彼女も今や立派な都会人……かと思いきやあっさり卒業間近になって
地元で就職を決めたとか。

そんな重大発表を何故ホテルの部屋を選んでいる真っ最中に言うのかも
解らなかったけれど。





「ダイエット頑張って」

「うん」


「君は飽きやすい性格だから」

「うん」



耳を済ませると何処かで踏み切りの鳴る音が聞こえたが、
それが徐々にただの耳鳴りの様にも思えてきた。それは若干の僕の甘えだった
だろうが。彼女はそちらに気を取られてか、上の空な返事を繰り返した。





「お菓子はなるべく控えて」

「うん」


「そうじゃないとすぐに牛みたいになっちゃうから」

「うん」


「ただでさえ君は牛なのに」

「それは違う」



電車が滑り込んできた。九時十五分にここを立つ予定の電車なのに、
既に時刻は十八分。速度を落として僕の視界を横切った、電車の中に立つ
制服姿の中年男を見て、こいつはクビだな、と勝手な妄想を膨らませていた。


それなのにも関わらず、何故かあっという間だったと感じてしまった自分に、
君もそろそろ末期だなと一人突っ込みを入れてみる。



雪崩のように人が出てきたかと思えばその固まりもやがてすぐに去り、
極自然に彼女も電車に乗り込んだ。少し段差があったからか、
いつもより彼女の顔が自分の近くにあり戸惑う。





「里佳子ちゃんによろしくね」

「うん」


「戸締り忘れないで」

「うん」


「ちゃんとご飯作って」

「うん」


「洗濯と掃除も忘れずに」

「うん」



母親みたいだ、と思った。あくまで淡々と告げる辺りが、特に。


発車を告げるベルが鳴り、未だ電車の際に立ち尽くしたままの僕を
駅員が軽く睨んだような気もした。東京の電車は実にせっかちである。





「楽しかったよ」

「うん」



「バイバイ」

「うん」



彼女が珍しく手を振ってきたから、僕も釣られて手を振り返してしまった。
僕が手を振ると、まるで中学生に成り立ての背が極めて低く幼い男の子が
着た学ランのようになってしまう。だから昔から何となく嫌だったのだが。





それにしても何だろうか、この電車が去った直後に吹く、電車の尻尾のように
連なった風の生温さったらない。


増して、喉の奥に嘗て一度だけ飲まされたことのあるホット青汁ドリンクの味のような
何とも言い難い苦味が充満している。







僕はホームを出た。幾らだったかは忘れたが、僕は駅のホームに入るために
百数円払っている。危うく金を払ったこと自体忘れそうだったが。


それなのにも関わらず、随分と下らない話をしたな、と若干今更ながらに
後悔してみたりもした。これならば普段の会話のほうがよっぽどマシだ。




無造作に突っ込んだポケットの中で、僕の手に何か固い物体が衝突した。
柔らかい布の温もりに包まれるはずだったのに、と毒づく。物体を引っ張り出した。


購入してからあまり使っていない気がしているこれは、周りは便利だと言うが案外
不便でもある。大体にして、僕には態々金をかけてまで喋る価値のある相手が
いない。





だが今日ばかりは、違った。金をかけてでも、話さなければいけない気がしたのだ。
これは彼女が去ったことによっての若干の興奮なのだろうか、衝動なのだろうか、
果たしてそれはどちらなのか、僕には判断が付かなかったが。



アドレス帳のり行から必死に恋人の名前を探す。突然電話をしたら驚くだろうか。
でもそんなの関係ねぇ、とかなり古い突っ込みで自分を励ましつつ。



この電話たった一本で、通話料たった数円で、僕を憎む人が世界に
確実に一人は増える。何とも恐ろしい世の中。あぁ、何とも恐ろしい僕。





しかし妄想はもうどうでもいい。余計なことを考えるのももうやめた。
そんな余計なことに頭を使うより、僕は今すぐにでもこの胸の奥の暗雲と
鬱々とした空気を取り払いたい。





善人ぶるのは簡単だが、自分の感情に素直になる人間になるのはなかなか
容易いことではない、のであろう。これはあくまで、僕の推測。


本当に、そんなことはどうでもいい。
とにかく僕は今この電話をかけなければいけないのだ。



躊躇もなく、僕はボタンを押した。







END







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