重い扉



飛び込んだ。そこにある全ての闇が自分を拒絶している事を知りながら、それを無視して。

手動しなくても自らの重みで閉まる鉄の扉のドアノブに敢えて手を掛け引っ張り、
震える手で闇の中から出っ張りを探し出し強引に回す。


重々しい金属音が冥暗に響き渡った。

それを耳にし若干の安堵を受け取った凌子は履いていたハイヒールを放り洗面所へと駆け込む。
その固い物体が壁に当たる音が、背後から凌子を追った。




蛇口が壊れるのではないかと思わせる程に水を噴出させ、そこに自らの手を突っ込む。
痛みが腕を刺したが、それよりも重要な事があった。


先程まで流れていた純粋で透明なそれが、途中から徐々に紅く染められていき、
それがまた元の色に戻ってゆく。



息をついたのも束の間、体中を駆け巡り引っくり返すような吐き気に襲われ、
凌子はばたばたとトイレへと駆け込んだ。便器に覆い被さるようにし激しく嘔吐する。

途端苦味と罪悪感に駆られ涙が滲んだ。





サイレンが鳴り響いているのが遠くから聞こえた気がし、漸く落ち着きを取り戻しソファにもたれかかっていた
凌子は飛び退く。先程から終始こんな調子だった。

それが幻聴だと思いたくもなるが、きっとそのうちどれかは現実なのであろう。


不気味な程に鳥肌のたった腕を自らの手でぐっと握り締めた。












つい数時間前であった。冬であるが故にその頃にはもうとうに日は暮れていた。
が、それでも街灯もない細い路地の中、突如目の前に車のライトで白く浮き上がった物体に、
気付かぬわけもなく。

腰を抜かしそうになるが間髪いれずに鈍い音が響き、反射的に固く閉じた瞳を薄く開くと、
目下のアスファルトが紅く染められていた。



頭が真っ白だ、と言えば比喩にも聞こえるが、あまねく現実(リアル)ではないのかと。瞬く間に顔面蒼白になった凌子は、芯から地震でも起こったかのように揺れる身体、焦点の定まらない瞳で、ただ愕然と眼前の光景を見つめる。

が、それを彼女の神経が情報処理するには、多くの時間が要された。




漸く激しくおののく手で横のノブを引き、車体から転がるように出た凌子は更に驚愕した。目の前に転がるその女が身に纏った、鮮血から所々覗くグレーの布地と、真っ先に目に入ったエルメスの黒バーキンに、彼女ははっきりと見覚えがあったのだ。

四つん這いになり、恐る恐る近付いていく。がくがくと震えた膝にアスファルトの凹凸が食い込んだ。


ひたり、と手に生暖かい感触を覚える。全身を冷気が一瞬にして通り抜けた。




彼女が勤めているカフェの常連客であった。固い服装、常に視線の先にあるパソコン、
眼鏡の奥から覗く鋭い瞳。

彼女の名前こそはその混乱状態では思い出せなかったが、彼女が毎日店に居座り仕事をしていた姿と、
つい先日の友人との会話をフラッシュバッグさせることは出来た。












「あの人、いつも凌子のこと睨んでるのよ」


掠れた空気のような音を、それでもしっかりと聴覚が捉える。凌子は反射的に首を巡らせ、食事をする人々の間から微かに覗くスーツの女性を見つけた。



「最近、凌子ストーカーにあってるかも、とか言ってたじゃない? あの、後ろからパンプスの音が追いかけてくるってやつ」


怪しいと思う、と友人は言った。辻褄は合っていた。店内の誰かからの視線を感じていたのは紛れもなく事実である。徒歩で店から帰ろうとしている際、ほぼ日常的につけられていることについても。

彼女の言う通りなのではないだろうか。と、その思考を断ち切る。


見ず知らずの人間を疑うとは、何の根拠があってのことか。私的な言葉を交わした事など一度もないのに。



「凌子がいない日は、そそくさと帰って行くのよ。あなた、恨まれでもしてるんじゃない?」


まさか、と蒼白な顔で口に弧を描いて見せるが、それは軽く鼻で笑ったその人に流されてしまった。まさか、
全て思い違いである。友人の、また自分の。心中で幾度も呟く音が、徐々に膨らんだ。


陶器の割れる音に、思考が打ち切られる。

顔を上げると先程まで凌子の見つめていた女性が、椅子から降りかがんでいるのが視界に入った。



「お客様、大丈夫ですか?」


ごみ袋を手にマニュアルを唱えると、彼女は女性に駆け寄る。白い欠片を拾う手が若干震えたのは、割れた陶器の鋭さにか、それとも先程の会話を回想してか。



「いいわ。私が片付けておくから、あなたは仕事へ戻りなさい」


突如頭上からの刺すような言葉が聞こえ、彼女は再び腰を下ろし跪き、白い鋭い欠片を次々と拾い上げ、
袋の中に放っていく。

ですが……と言葉を添えた凌子を無視し、彼女は黙々と白を拾い上げていた。その瞳が、まるで、あなたなんか用無しよ、あなたなんかに任せられないわ、とでも告げているようで、凌子は一人胸に宿った憤りを堪えていた。











つい先程まで目前にあった色が、未だ凌子の脳裏に焼きついて離れず。


響き続ける子供の声も、時折遠くで鳴り響くクラクションも。普段は気に留めることなど一切ないのに、
今日ばかりは全ての音に恐怖を感じた。

今にも警察が乗り込んでくるのではないかと、そんな不安にも駆られる。それもそのはずであった。


彼女は、逃げたのだから。迫り来る闇と紅から。



眠りにつく事など到底出来るわけもなく。未だ蒼白な鳥肌の立つ腕を鬱血しそうなほど強く握り締め、膝を丸め、がたがたと身体を揺すり、時折びくりと肩を飛び上がらせながら、真っ暗な部屋に徐々に恐怖が押し迫ってくるのを感じていた。












夜が明けた。重々しい圧迫感のあるカーテンの微小な隙間から、朝日が覗く。

凌子の瞼は重く腫れていたが、その奥の瞳は狼の如く鋭かった。重圧的なカーテンを開き光を取り入れる、などという事は彼女の思考から除外されているようだった。

漸く重い腰を上げ、彼女は重く覚束ない足を進める。



冷蔵庫の扉に手を掛け引くと同時に、外気より更に鋭い冷気が凌子自身だけでなく凌子の心をも突き刺す。


何故だろうか。心に尋常ではない程の鋭い痛みが走った。刃物で切り裂かれたかのような。



深呼吸を数度し、漸く落ち着きを見せたところで、痛みを振り払うようにして氷の塊の如く冷やされたビールを奪うように手にし、それを一気に仰ぐ。と、瞬間体の奥底から沸き起こってくる激しい吐き気に襲われ、流しに飲み干した黄色い液体も何もかも全てを嘔吐した。滝のように水を流し、むせ込みながらも口を濯ぐ。



よろめきつつも台所を後にした凌子は昨夜同様顔面蒼白で、わなわなと震えた唇をタオルで覆う。


一度、未だもうろうとする頭を奮い起こそうとこめかみを自らの拳で小突く。その震えが消える事はなかったが、自身に落ち着きを言い含め、昨晩のままであった格好から部屋着へと着替えた。




出来る事ならば今日ばかりは、外気に肌をさらしたくはなかったが、昨晩の事件……いや事故がどのように世間に知れ渡っているのか、彼女には知る必要があった。居てもたってもいられなかったのである。


何れは知らねばならぬ事実を、数枚の薄汚い紙として手にし、周囲を一周ぐるりと警戒するように見回した凌子は、逃げ帰るように自室へ急いだ。



焦りを隠そうともせず、サンダルを玄関に散らばせ部屋に駆け込む。畳んだままの新聞を、強く握り瞳を閉じた。深く、深く深呼吸を一つし、肩の力を抜く。と、瞬間彼女は瞳をかっと見開き新聞紙を強引に捲っていく。それを凌子は真に迫った瞳で刺すように見つめていた。

目的の記事で手を止める。


瞬時に彼女の手の平に激しい震えが走り、何ともいえぬ脅威を感じた。



『ひき逃げ 女性が死亡/十二日午後九時四十五分ごろ、○市△区二丁目のカフェレストラン「オリーブ」近くの路上で、会社員本田玲子さん(四七)が倒れているのが見つかった。本田さんは病院に運ばれたが、全身を強く打っており既に死亡していた。県警はひき逃げと見て捜査を進めている』



彼女はより一層おののき唇を震わせる。捜査は既に始まっている。固く握り締めた新聞の端は、
既にただの塵と化し。

頭の天から激しい冷気が身体の芯を流れていった。





亡くなってしまったのだ。記憶こそ曖昧ではあるが、はっきりと脳裏に刻み込まれているのは、震えながら差し伸びてきた紅に濡れた白く細い手。

残像を浮かべた途端、背筋に異様な寒気を感じた。膝から震え始め、一瞬でも気を抜いた瞬間、操り人形のように崩れ落ちそうだった。






突如耳に強引にも入り込んできた機械音に、凌子は漸く我に返る。その電話呼び出し音に警告の意を感じ、張り付いたように動けなくなった。

が、それでも渾身を尽くし震える足を立て直し黒い子機へと歩み寄る。しかしその足はやはり、彼女の心のようにわなないていた。



「……もしもし」


窺うように、眉を最大限に顰める。手中に収められた塊が、彼女によって大きく震えた。

不自然に戸が風に鳴り、凌子の瞳が更に揺れる。



「あぁ、凌子。父さんだが……」


低く安定のある声に、凌子は塊を握り締める手を緩め、同時に感嘆とも取れるような応答を返す。

恐怖が一様にひいたせいか、安堵と共に不可解な吐き気が彼女を襲った。



「お前、今日仕事はどうしたんだ?」


大袈裟な程に、肩を跳ね上がらせた凌子は、何となしに周囲を見回す。自身の心中を探られたようで、またも恐れが滲み返してくる。


確かに今日は平日である。社会人が自室にこもっていたら疑うのは当然のことであり、だが堅実な理由さえあれば誰も疑いやしないであろう。

例えそうであったとしても、それ以上に深い勘繰りなど父には出来るはずがない。落ち着きを払い答えればいいのだ。


ほんの間もない時間に、何度となく自身に言い聞かすが、未だ全身に駆け巡る震えは収まらず。



「今日は、ちょっと体調が悪くて。店長にお願いしてお休みしたのよ」


自分の声に宿った思わぬ強張りに凌子は瞼を固く閉じるが、機械処理された音声ではさすがに心境まで読み取る事は出来ないだろう、と再度落ち着きを取り戻す。

そうか、とまるで興味を示さぬ父親の声に、凌子の肩の強張りが抜けた。



「誠に言いにくいんだが、お前の実の母親がな……」


一旦言葉を切った相手に、凌子は不満を募らせる。以前に比べ、凌子が社会人になり離れて暮らすようになってから、二人の仲は確かに疎遠ではあったが、元より特別用事がなければ電話などしては来ない人間だ。

恐怖に駆られ自己が蘇ってくる感覚を全身に感じ、同時に情けなくもなる。





凌子の母親が姿を消したのは、彼女が三歳の頃であった。
子より職を取り離婚を成立させた母親。


もっとも物心が付き始めた年頃だったとはいえ、思い出どころか母親の顔すら、彼女の記憶には残っていなかったが。



「昨日、交通事故で亡くなったそうだ。明後日葬式に参列することになった」



詰まるように言いよどみ、その後機械的に言ってみせた父親の声に、握り締めた手の力を込める。

まさか、と凌子は目を見開き、手元の新聞に視線を落とした。その細かな幾多の字が凌子の胸を刺す。全身を煮え切った血液が暴れるように駆け巡った。





「……ねぇ、お母さんの名前って何だっけ」


不自然に取られないように、と微かな笑みを添えた筈が、語尾が消滅しそうなほどにかすれ。ぐっと握り締めた紙束が手にかいた汗で湿っていた。

足元から滲み寄って来る闇に、必死に抵抗しようと。それに更に力を加える。





「玲子……本田玲子だが、それがどうかしたか?」


字が、床に吸い込まれ。重く鉛のように足元に吸い込まれた紙が落下した音と共に、彼女の中で何かの崩壊する音が響いた。












焼香の鼻につく香りと、低く地から這い上がるように響く僧の声が、一層凌子をいたぶっていた。隣に座る父親の俯き加減ですら、彼女の罪悪心を逆撫でする。さして有りもしない視線を気にし、彼女の精神は爪先から頭の頂点まで張り詰めていた。




長く重苦しい時間が過ぎ、人が徐々に散らばりつつあった。親族席に座っていた者は極少数であったが、同社員の者達であろうか、一般人にしては充分な程の参列者が会場には居た。

無論葬式が終わった今では、その半分の人すらも存在なかったが。



「凌子」


突如名前を呼ばれ、周囲を警戒するように眺め回していた凌子は肩を跳ね上がらせる。声の主へと目を向けると、父は親族席に座っていた数名の人物達の輪の中でこちらを振り返っていた。

人の波を縫って父の元へと足を運ぶ。


彼女は、その時に浴びた人波からの興味の視線にすら恐怖を感じていたが、成るたけそれを表情に出すまいと他人行儀な愛想笑いを父に向けた。



「ほら、母さんの顔見てきなさい」


玲子の親族の前で故か、父の声にはいつものような柔らかさや安定感はなく、寧ろ抑圧に近いものでさえもあり。だがそれは逆に凌子にはありがたいものでもあった。

背中に軽く手が添えられ、それに力を加えられる。進行方向は、棺。


奥底から閉じ込めていたはずのものが舞い戻り、避けることばかりを考える心中とは反対に、
彼女は歩き始めていた。








数日前まで、生々しく目前にあった顔が。先日紅に染められていたあの顔が。

凌子は不覚にも息呑んだ。日常の、冷たさを強調したようなオフィスメイクではない、薄い化粧を纏った玲子は、静かに白に包まれ眠っていた。

無論、印象的であったあの冷たい瞳を見つめる事は叶わなかったが。


その瞳を奪ったのは、自身であった。殺したのだ。轢いて、見殺しにしたのだ。この人を……。



何かの気配を感じ、はっと振り返った凌子の後ろには何もなく。ただそこには先程の雑然とした空気とは全く異なった空虚が、我が物顔で居座っていた。

安堵するはずであった。だが突如、凌子の背中に冷や汗が伝い、唇がわななき始める。



誰かに監視されているのではないか。念入りに車体を磨いておいたが、それでも見落とした血痕が刑事の目に入りこの辺りを張っているのではないか。


彼女の胸に不安が湧き上がって来たが、それは彼女の一方的な暴走である。気付くはずなど無いのだ。そう、凌子は心に強く言い聞かせ。

身体の震えが止まり、凝り固まった精神も緩んだ折に、彼女は棺に向き直った。




その瞬間、目を見張った。何故今まで視界に入れられなかったのだろう、と、凌子は激しく自己を罵る。

そっと、そっと徐々に歩み寄っていく。その足取りに躊躇など微塵もなかった。



玲子の顔を、覗き込む。その白く痩せたの周りには、幾つもの思い出の品であろう物が入っていた。その内の一つを、吸い込まれそうな程に見つめる。





画用紙一杯に描かれた絵だった。幼稚園児がよく描いているような頭足人が三人ほど、暖色のクレヨンで描かれている。小さなピンク色の女の子の手を、水色の男の人とオレンジ色の女の人がそれぞれ握っていた。


自分の描いたものだと、瞬時に分かった。その画用紙の右下には、ミミズのような覚束ない字で、「りょうこ」と記されたいたのだから。



長いことどこかに貼り付けられていたのか、その絵は色褪せ風化しているようにも見えた。ぽとり、と一粒。透明な雫が、棺の窓のガラスに落ちてきらめく。

誤解、だったのだ。母が彼女に恨みを持つ理由はない。母は、いつも彼女を見つめていたのだ。



事に気付くのが遅すぎた。あの追ってくる足音も、最期に差し出された青白い手も。目前にあるでたらめな絵と、母の眠る表情と、胸を締め付ける残像が全て重なり、幾多の感情を彼女の中に生み出した。

後悔、などという言葉では表しきれないものが、雫となって零れていく。震えた。


自身のした事の重みに、漸く気付かされる。未だ収まらぬ震えを湛えた手で、滲む母の顔に触れようとするも、そこには重く厚い現実という名の壁が立ちはだかっていた。












ぽちゃり、と微かな音が静けさを保っている辺りに響く。父の手から放たれた灰色の小さな石が一つずつ跳ねながら川へと飛び込んでいった。彼女達を囲む森林が、冷えた風に揺すられ会話を始める。


霧の立ち上る川辺に座り込んだ凌子の横で、父は少年のように石投げを続けていた。



「昔、こうしてよく遊んだものだな」


凌子の傍に寄って来て身体をかがめた父は、石を拾い上げながらしみじみと呟く。またも飛んで行った塊を追いかけ、彼女は目を細めた。

喪服が汚れてしまうのではないか、と次に父親へと視線を移す。それに気付いたか、
彼が顔を向け僅かに微笑んだ。




石投げが好きだった凌子は、こうしてよく父と川辺に来ては日暮れまで飽きずに遊んでいたものだ。
運良く飛べば、霧の中へと石が吸い込まれ消えてゆく。

それが彼女にとっては何故か特別なことのように思えていた。



「一度母さんとも一緒に、ここに来たことがある。覚えてるか?」


嬉しそうにまた腕を振った父は、彼女を振り返りはにかんでみせた。遠方から視線を戻し、色の無い目で首を左右に振った凌子に、彼はそうだよな、と呟き苦笑する。


投げた石の行方を目追うように反対の川岸に一瞥をくれ、そして父は凌子の方へと歩んでくる。喪服の上着に取り付けられた内ポケットの中から、一枚の紙を手渡した彼は、ついと凌子から視線を外した。

父に一瞬目をくれ、手元に視線を落とした凌子は息を呑む。




写真だった。たった一枚の古ぼけた色褪せた写真。幼い少女を挟み、若い綺麗な女性と、若い頃の父が幸せそうに凌子へと微笑みかける。


長い間持っていたのか、色褪せ紙の端が千切れていた。母さんが持っていたそうだ、と父が小さく呟く声に凌子は顔を上げる。



「……母さんは頑なで勤勉でな。父さんは実に苦労したよ。離婚した時だってそうだ。最後まで渋ったんだが、母さんの決心は揺らがなかった」


詰まり気味に語りだした父に、凌子は彼の気持ちを悟る。思いふけり手を止め、向こう岸に視線を移した父に、凌子は同様視線を霧の向こうへと向けた。

風で、手にした紙がなびいた。





「だがな、母さんは誰よりも凌子を愛していたよ」


一言、石の上で小さく跳ね上がりながら、鳴く千鳥の声に消されそうになりながらも、凌子の耳に確かに飛び込んできたのは、衝撃。

あの写真を見た後で心底疑う余地などなかったが、自身が過去に与えられた"片親"という精神的苦痛に
眉をしかめる。



「自分が仕事を捨てられないことで、後々凌子を苦しめてしまうんではないかと、そう心配しての離婚だった。だが母さんも諦めが悪くてな。何度もお前の写真を送りつけるよう、催促の電話を遣してきた」



ふと、つい数時間前まで目に収めていた絵が脳裏に浮かぶ。自分の存在が子を苦しめるかもしれないとまだ起こってもいない事態を推測して自ら姿を消した? 愛していたのに? 


まさか、と嘲笑した凌子の頬には、雫によって一筋の線が描かれていた。未だ、千鳥は鳴き続ける。その声は哀愁に満ち、まるで凌子の心を歌うようだった。



「突然のことで、お前も驚いただろう。悪かったな、色々と」


俯き一瞬眉を上げ、父は手の平の上の石ころをもてあそんでいる。一つ、摘み出して先程より力を込め投げた石は、呆気なく手前で落下し沈んでいった。

静かに彼女の頬を伝う涙は、止まることを知らず。この冷気に冷やされる間もなく零れ消え去る。





「お父さん」


思わず彼女は呼びかけていた。腕を振り上げていた父はそれを静かに下ろし、その手から小さな塊が零れ落ち、彼の足元でこつんと音を立てる。


自身が何を口走ろうとしたのか、それすら定かではなかったが、いえることはあった。

罪悪感は否めない。凌子自身の手を直接下した訳ではなくとも、彼女が逃げてさえいなければ、母は助かったであろう。その事実さえも確かである。



だが、殺したのが自分ではなかったら、と凌子は自問自答した。間違いなく犯人を恨んでいたであろう。名も顔も知らぬその人を、つい先刻まで名も顔も知らなかった母を想って。



「凌子、どうした?」


先を続けぬ凌子に彼は歩み寄り、そこで初めて彼女の頬に伝っているものに目を留める。彼女は震えていた。川の流水音が静かに過ぎ、木々たちが会話の声を大きくする。



「私……私なんだ」


唇に痺れがはしり、それに従って声も次第に小さくなる。弱弱しい声音は、千鳥の鳴く声にすら押しつぶされてしまいそうだった。

絞り出した声と眉間を寄せた父の曇った表情に、後戻りは出来ないのだと、凌子は身が引きちぎれそうな程痛感する。



「お母さんを、轢いたの……」


明らかに声は弱まっていた。木々の声にも風の音色にも壊されてしまいそうな程に。だが何故か最後の一言だけが凌子の耳に明瞭に届き、思わず瞳を固く閉じる。


現実を、漸く叩きつけられたような気がしてならなかった。事が起きたその時から、もうすでに運命は定められていたというのに。



「……そうだったのか」


掠れた声で、しかし普段の柔らかさを取り戻した父は、そう一言呟く。数回自己に言い聞かせるように頷いた後、彼は腰を上げる。凌子はそれを、目で追っていた。


腰を曲げ小石を手にした父は、それを上から大きく振り被り薄暗い霧の中へと向かって投げる。

姿が見えなくなり、直後耳に届いた音が、辺りに遺響を残した。
















通常より早く目を覚ました凌子は、台所でコーヒーを淹れていた。事件から四日後の朝のことである。昨晩店長に連絡を入れ、長らく休みを取るであろう事を伝えた。

無論、訳を尋ねられても彼女は一切口を割ろうとはしなかったが。だが、彼女の決意はもう固まりきっていた。



「凌子、随分早いんだな」


背後から響いた低い耳慣れた声音に、未だ慣れぬ凌子は一瞬身体を強張らせる。振り返り父親の顔を確認すると、ほっとしたように息をつき、彼女はマグカップに口を付けた。



昨日母の葬儀から帰った後話し合った末、しばらくの間父が凌子の部屋に滞在することになり。その提案に父の心中を思い知った彼女は、黙ってそれを受け入れた。


自らに残された時間は、残り少ないのだ。強く噛み締めた唇から、血の味を感じ取る。



朝食を作り終え、食卓に料理を並べていく。父親は椅子に腰を掛け、朝刊を目を細めつつ読みふけっていた。無論その朝刊に、彼女の事を告げる記事はなかったが。

凌子は朝食を手早く済ませ、バッグに必要な物を詰めていく。



「凌子」



着替えを済ませ、寝室から出てきた彼女に、父は新聞の上から覗き込むようにして声をかけた。動きを止めずにバッグを手にした凌子は、単語にならぬ声で応答する。


顔を上げ父を見ると、彼の顔が切なそうに歪んでいた。



「行くのか?」


彼は解っていた。その問いが必ず肯定で返ってくることを。凌子は一度真っ直ぐ、父の顔を見つめる。その瞳にしっかりと収め、二度と忘れぬように。そう、強い想いを視線に込め。


頷くこともせずに、彼女は部屋の鍵を机の上に置き、玄関へと向かう。父はそれを、座ったまま視線だけで見送っていた。







重い鉄の扉を押した凌子は、自らの手でそれを静かに閉める。小さく音を立てはまったそれに、彼女はどうしようもない孤独を感じるが、それを瞳を閉じ頭から追い出し。


父からもらった三人の残像をぐっと握り締め、一歩その先へと踏み出した。







END










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