ピアノと俺




真っ白な壁。吹き抜けになった天井。
眠気を誘う心地よいソファー。室内に流れる優雅なショパン――。




迂闊にも瞼を閉じてしまいそうになり、慌てて首を左右に振り、
眠気に別れを告げようとした。


曲はショパンの、ワルツ作品六十四の二。そして演奏しているのは、俺の彼女。



この曲は、彼女が小さい頃弾いていたことがあるらしい。

俺も彼女に借りたCDで聴いたことがあった為知ってはいたが、実際に聴くと
生の音はやはり、CDのスケールとは比べ物にならない。何よりも、音が輝いている。

俺は最高級に高いとされるグランドピアノをさらりと弾く彼女を、ちらりと見遣った。




開け放された窓から吹く風に靡く漆黒の髪。繊細な音を導き出す白くて細長い指。
端整な目鼻立ち。



最高に優雅な日曜の午後だ。窓から降り注ぐ日光が純黒のピアノに反射し、
彼女の顔を照らした。



俺は思わず見惚れていた自分を叱り付け、ソファーに寝そべり天井を見上げる。
竹コプターのプロペラのような空調が、頭上でゆっくりと回転を続けていた。





彼女と出会って早二年。通常なら大学受験に明け暮れているようなこの季節、
推薦入試に受かった彼女と俺を含む数名は、取り残されたように平凡な日々を
送っていた。


彼女は将来有望だと言われているピアニストだ。おまけに飛び切りの美人。
ということで、音楽業界ではすでに有名人らしい。



そんな彼女のプライドはアルプスの山の如く高く、演奏会のための練習は、
毎日怠ることなく遂行している。そのため、恋人になったのはいいものの、
デートといえるようものは、これまでで一度も無い。



唯一あるのは、この日曜日の午後、彼女の家に俺が来る、
という行事のみである。だが俺ができることは、彼女のピアノを聴きながら、
一人でティータイムを満喫することだけだ。





時々、彼女は俺の名前すら知らないのではないかと思うことがある。
彼女は俺の名前を呼ばない。そしてメールもくれない。

こんなにも寂しい恋がこの世にあるだなんて、俺は彼女に出会って初めて知った。




"俺とピアノ、どっちが好き?"


そう訊いたら、彼女は確実に後者だと答えるだろう。だけどそれではあまりに自分が
惨め過ぎるから、俺は決して訊かないと誓った。

彼女が"勿論あなたよ"と答えてくれる確率が百パーセントになるまでは。



俺はそれまで、辛抱強く待とうと決めた。だから今こうして、
眠気に負けずに彼女のピアノを必死に聴く必要がある。



大丈夫だ。こうして待っていれば必ず近いうち、彼女は振り向いてくれるに違いない。
だってこの俺は今まで一度も振られた事がないという記録を未だ保持している
ウルトラ格好良い男なのだから。







気付くと、辺りは静まり返っていた。大きな窓から差し込んでくる光は
もうなく、彼女が向かい側で楽譜にチェックを入れている。

俺は尋常ではない程の動揺を隠さず身体を起こし、壁にかかった時計を見た。



「今日バイトでしょう? 早く行けば?」


失望に呆然としていた俺に、彼女は顔を上げずに言う。

何と冷酷なんだ……。気付いていたなら、起こしてくれれば良かったのに。

俺は心の中でそう文句を言いながらも、真剣な顔つきの彼女に圧倒され
何も言えなくなり、黙って豪邸のような彼女の家を後にした。












一人きりでこんなにも広い部屋にいると、とても怖くなってくる。増してや、
俺の人生の最大のライバル、ピアノと共にだなんて運が悪すぎる。


今日はたまたま練習の途中で来客が来て、彼女はそのお相手の
ために借り出されてしまったのだ。



大量の楽譜が詰め込まれた本棚に近づき、手は触れずにじっくりと眺め回す。


ショパン、リスト、モーツァルト、ドビュッシー、ラフマニノフ。全て名前を見るだけで、
メロディーも作曲家の顔も瞬時に浮かんでくる。


だがあるのは知識だけだ。自慢ではないが俺はキラキラ星も
満足に弾けず、楽譜に至ってはドの位置すら分からない。



それもこれも全て彼女のせいである。彼女は音楽にする
有りと有らゆる薀蓄は嫌というほど聞かせてくれたが、楽譜やピアノに触れさせて
くれたことは一度もない。だから俺はいつまでも頭でっかちのままなのだ。





俺は、いつも憧れていたその"最高品質"だと云うグランドピアノを見つめる。
彼女が絶対に触れさせてくれなかったものだ。


……少しくらいなら大丈夫だろう、と悪魔の囁きが聞こえた。



俺はゆっくりと忍び足で近づき、ドアの方を横目で見ながらグランドピアノに近づく。
ピアノの前に立つと、彼女の香りと共に興奮が湧き上がってくるのを感じた。



ゆっくりと人差し指を出し、鍵盤に近付ける――。





「触らないでっ」



突然空気を劈くように響いた彼女の声に俺は肩を跳ね上がらせ、
触れようとしていた指を瞬時に引っ込めた。


彼女は俺の近くまで走ってきて、稲妻のような速さで俺の頬を引っ叩く。
彼女は息を切らせて俺を睨み付ける。あまりの速さに痛みも感じない程で、
俺は未だ状況が把握できず呆然としていた。



「ごめんっ」


焦って彼女を宥めるように言った俺は、無言で部屋から追い出され、
仕方なく帰路に着いた。





その途中で楽器屋に寄り、ピアノの楽譜を探す。
まずはピアノに歩み寄る心がなければ、一生勝つことはできない……。



『簡単に弾ける幼稚園児のクラシック』

『誰でも弾けるショパン』


とりあえず出来そうなものを……と手に取ってみるが、こんなもの嘘っぱちだ。
簡単に、誰でもなどと言うが、悪いが俺は弾けない。

結局俺は何も買わずに本屋を出た。


俺は一生、彼女にあの質問をできないのかもしれない――。












今日も空は晴れ渡っていた。日曜の午後は晴れるという天空界の規則でも
あるのだろうかと、思わず疑いたくなる。


相変わらず彼女はショパンを弾いていた。今日は、幻想即興曲であるが。


完璧なテクニック。一つ一つの音が鋭敏ながらも美しく響いている。

この曲はどこか陰湿で眠いイメージがあったが、彼女が弾くとなんとも切なく煌き、
思わず涙が出てしまうほどだ。





俺は吸い寄せられるようにピアノを弾く彼女に近づいて行き、
ピアノの上に置かれていた一冊の楽譜を手に取る。


これまたショパン。英雄ポロネーズだ。彼女が一番得意な曲である。
明るく華やかで俺もこの曲は好きだ。


風に促されたかのようにして楽譜が開く。その瞬間俺は吐き気を堪えた。
紙の上に猩々蝿が大量発生しているような、異様な音符の数量。
見るだけで、別の意味で悍ましい。





不意にぱたりとピアノの音が止んで、俺は楽譜から目を逸らした。
彼女の殺意を隣に感じ、俺は首をゆっくりと回す。自分の顔から血の気が
引いていくのが、自ら分かった。




「邪魔するなら、帰ってくれる?」


彼女のドライアイスのように冷たい言葉が、俺の心にナイフの如く深く刺さる。



訂正。今まで一度も振られた事がないからと言って、
これから先も振られないというわけではない。




ピアノと俺の戦いは、永遠に続く――。







END







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