林檎の呪い
あるところに、それはそれは可愛らしい王子様がいました。
彼は純粋な心を持っていて、周りの人から大変好かれていました。
そこへその王子様の評判を聞き、隣の国からお姫様がやってきました。
しかしその晩、お姫様が持ってきた毒林檎のせいで、
王子様はぽっくり死んでしまいましたとさ。
俺は高校二年生でありながら童貞である事をからかわれ続けることを、
どうでもいいという顔をしながら心の底では悲しく思っている、という、
何とも屈折していて見栄っ張りな男である。
しかしこんな俺の周りにはいつも人がいっぱいだ。もちろん、男ばかり。
童貞、とからかわれるだけあり、女と話す事を苦手とする。
普通に話せるのだが、どうも女が嫌いだ。
誤解を防ぐため予め言っておくが、
女が嫌いだからといって必ずしもホモなわけではない。
「なぁ神田」
二時限目の地学で行われる小テストのための自作ノートから顔を上げると、
案の定そこには深刻そうな顔をした男が立っていた。
「何だ」
俺は椎野正樹の気持ち悪い真顔から目を逸らし、尋ねる。
椎野と俺は中学からの付き合いであり、所謂悪友である。
しかし何故か椎野は昔から妙に俺に懐いていて、悩みがあるとすぐに俺に
相談してくるものだ。
別にその事自体に悪い気はしないが、地学の小テストであと一回赤点を取ったら
もれなく一週間の補修が付いてくる事は、椎野もきっと知っているはずだ。
「やっぱり明日、一緒に来てくれないか?」
そんなこともお構いなしに、椎野は真剣な瞳で迫るように俺に問いかける。
きっと椎野にとってはその後一週間の放課後なんかより、
明日一日の方がよっぽど大切なのだろう。
明日は椎野の彼女が椎野の部屋に遊びに来るらしい。
一人暮らしの椎野は、彼女にどうしても、とお願いされ、仕方なく了承したらしい。
が、それにしても椎野の部屋は汚い。正しく汚れているのだ。
椎野曰くお宝だというエロ本が、玄関からアルプスの山の如く聳え立っている。
俺にはどうしてもそれがただの紙にしか見えないが。
それにも増して、椎野は緊張すると口数が極端に少なくなるため、
密室に閉じ込められると、どうしても気まずくなってしまうだろう。
しかし俺は絶対に嫌だ。何よりも、椎野の彼女が嫌いだ。
「嫌だね。前にも散々言っただろうが」
俺はそう言い、椎野から逃れようと立ち上が……ろうとしたところを、
無理やり椎野に腕を掴まれ縋りつかれ泣かれ、もう一度席につく。
「大丈夫だよ、お前がよっぽど変なことをしない限り、きっと彼女は怒って逃げ出したりはしない。まずちゃんと部屋を片付ける事が前提だがな。とにかく俺を巻き込むな」
一気に捲くし立てるように言った瞬間、すぐ横から気配を感じ俺は黙り込む。
「正樹、神田くん、何話してるの?」
まさに君の話である。椎野が王子様気取りにそう言ったが、
姫咲はそれにはあまり興味がないようだった。
名前の通りまさに姫である、と言われている姫咲真理子。
俺にはその噂が、姫咲の自称にしか思えない。
確かに色が雪のように白く、頬が林檎のように紅い。まるで白雪姫だ。
だがそれは見事に見た目だけである。こんなに腹が真っ黒な白雪姫はいない。
「明日、神田が一緒に来てくれるって」
椎野が嬉しそうに姫咲に微笑むと、姫咲は俺を真っ直ぐに見つめた。
まるで獲物を見つけた瞬間の狼のような瞳で。無論、椎野がそれに気付くはずがない。
「明日が楽しみだわ」
ふふっと可愛らしく首を傾げながら言った彼女の声に、俺は身震いをした。
「神田くん?」
放心状態で椎野の部屋のベランダから空を飛ぶ鳥を見ていた俺は、
不意に響いた大嫌いな女の声に振り返る。
「正樹、いないの?」
俺の努力のおかげですっかり片付いた綺麗な部屋を見渡して、姫咲は俺に尋ねる。
「林檎ジュース買いに行った」
あいつはいつから林檎が好きになったのだろうか。白雪姫と呼ばれている姫咲と
付き合い始めてからか? だとしたら気持ちが悪すぎる。
テーブルの上にも、ウサギ型に切られた林檎が盛り付けられている。
勿論それも俺担当だ。朝の六時からの努力の証だ。
そして椎野は、買い忘れていた本人曰く重要な林檎ジュースを急いで買いに行った。
俺は仕方なしに部屋の中に入り、彼女の横を通り過ぎて椅子に座る。
俺が座った振動で、目の前のウサギさんが微かに揺れた。
彼女が近づいてくる足音がしたが、俺は無視し続ける。
不意に鼻を刺すような強烈な匂いがして、目の前が陰り、俺は顔を上げる。
すると俺を姫咲の巨大な胸が出迎えた。わざと見せ付けているのだろう。
そういう女だ。
姫咲は俺の前に置いてあった林檎を手に取り、一口シャクッという音を立てて齧る。
そして口から溢れ出した林檎の汁を指の先で拭い、楽しそうに頷いた。
「神田くんも食べれば?」
彼女はそう言い、俺に向かって微笑む。
「いや、遠慮しておく」
俺はそう断って、椎野に助けを求めるため携帯を取り出す。
しかし充電が切れていたことを思い出し、諦めて乱暴にポケットに戻した。
「何で? 美味しいのに」
彼女はきょとんとして、丸い目で俺を見つめる。お前なんかみたいな汚らわしい
人間と同じ物を食うのが嫌だからだ、というのは、後で椎野に殺されそうだから
言わないでおいた。
「いいよ、俺は」
俺はそう言って首を振る。彼女がにやりと笑ったのが分かった。
「じゃあ……」
彼女の声に、俺は顔を上げる。と、その時だった。
唇に柔らかい感触がして、同時に先ほど感じた強烈な匂いが更に強くなった。
驚いて声を上げようとした瞬間、ほんの少し開いた唇の隙間から、
何かの固体が入ってきた。甘い香りが、口の中に充満する。
玄関の方でがたがたと音がして、彼女はゆっくりと唇を離す。
何も知らずに帰ってきた椎野は、平然とした顔の姫咲に向かって林檎ジュースを
掲げ笑った。
口の中に残った小さな固まりを噛むと、シャクッと爽やかな音がした。
俺はそれ以来林檎が食べられなくなった。別に特に嫌いでもなかった林檎が。
その後できた妻にも娘にも、出来るなら食べさせたくはなかった。
林檎を見ると、すぐさまあの悪夢が蘇ってくるのだ。
そして――……。
「あなたー、お隣の椎野さんの奥さんから林檎頂いたわよ。食べる?」
愛しの可愛らしい妻が、その顔で恐ろしい事を口にする。
「いらない」
林檎の呪いは、解けない――。
END
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