言葉にできない
     I love you
01


「何だよ、それ……」


頭を両手で庇うように抱えて蹲った彼から、くぐもった、少し震えた声が聞こえる。
その全てが、私を責め立てた。

彼に見えないのを良いことに、口元までせり上がってきている感情をかみ殺すように、
下唇に強く歯を食い込ませる。





「ずっと俺のこと、騙してたってことかよ?」


ようやく立ち上がった彼は、こっちに顔を一切見せず、背中を向けたまま尋ねる。
冷静を装ったその声も、未だ震えていて。右の袖を掴む。私は、弱い。





「騙すつもりなんかなかったの。……ごめん」


完璧に演じきれたはず。私は、こんな絶望の淵に立たされても、
そんなことを淡々と考えていた。

そうでもしなきゃ、耐えることなんて到底できる由もなかった。





彼が、振り返る。その瞬間、息をのんだ。


よく見慣れた、女の顔。その目が赤く染まり、私を刺すように強く睨みつける。
いつの間にか私の立っている場所は、長年立ち続けてきた、台所。



「最っ低……」


がたがたと震えた細い手が、流しにあった包丁の柄に触れ、しっかりと握り締めた。



「あんたなんか、死ねばいいっ!」


叫びを上げた女は、手に持ったそれを振り上げる。
瞬間、私は顔の前に勢いよく両腕を交差させた。












はっと息をのみこむ。心臓が、一瞬動きを止める。

目の前に広がるのは、ただ淡白なアイボリーの天井。
額に冷たい風を感じ、手の甲を当てると、微かに湿っていた。



また、あの夢……。何度見ても、どんなに願っても、どこまでも追いかけてくる悪夢。
上半身をゆっくりと起こし、まだ鈍い痛みが支配する顔を、両手で覆う。





ベッドから足を出した途端、冷たさが素足を刺し、顔を顰める。

つい最近まで、掛け布団を暑いとさえ思うほどの気温だったのに、
秋に入った途端これだ。その差異に、改めて驚かされた。



ベッドのすぐ横にあるテーブルに、いつも通り置かれた携帯に手を伸ばす。
そして、迷うことなくアドレス帳から番号を探し出す。



「もしもし」


寝ぼけた、少しくぐもった声が小さな機械を通して聞こえてくる。



「おはよう。起きてた?」


この様子だと、まだ寝ていたのだろう。出社は九時だ。
彼の会社は比較的彼の部屋に近く、八時に起きても遅くないほど。今はまだその一時間前。



「んー、今起きた」


彼らしい自然な返事に、笑みを漏らす。





私と彼、冬矢が付き合い始めてもう二年が経とうとしている。


私が大学に入学した頃、彼は私の入った他校との合同サークルの先輩だった。

彼が社会人になり、まだ大学三年である私との差も大きいように感じられる中、
私たちは変わらず交際を続け、こうして学生時代からの習慣であるモーニングコールを、
毎朝繰り返している。





「明日、どこ行くか考えとけよ」

楽しみだ、とその言葉が滲み出たような声を出した冬矢に、うん、と明るく返す。


週末だからといって、毎週会えるわけじゃない。
向こうだって休日出勤の日もあるし、こっちもレポートやら何やらで忙しい。
そんな中、明日は二週間ぶりに会う約束をしてる。



「楽しみにしてるね」


そう弾んだ声で言った私に、冬矢も嬉しそうに返す。






電話を切った私を、脱力感が襲った。顔を、刺すように冷たい水に晒す。




もうあれから、四年が経ったというのに、私は未だにあの事件を引きずってる。


ふと、袖を捲くった腕を見つめる。そこにはあの事件の形跡が、はっきりと残されていた。
若干変色し、凹凸のできている部分。

胸の奥が締め付けられたように軋んだ。



私にはもう、将来すら想像できる相手がいる。それなのに、責め続けるように私を追い詰める、あの夢。

いつになったら、私を解放してくれるのだろう。












「ね、お願いっ」


千佳が、その大きな二重の片方を閉じ、両手を顔の前で合わせる。
千佳の後ろを通った女の子が、ちらり、とそれを横目で見た。



「だから、何で私なの」


さっきから、もう三度目になる言葉を、ため息と共に吐き出す。
ここは女子大。誘う相手なんて、石ころのようにいるはずだ。



「だって、怜いると超ウケ良いんだよー?」


褒め言葉になっていないような千佳の言葉に、私はもう一度息を吐き出した。


今日は、前々から千佳が気合を注いでいた三國大の男達との合コンの日。
それが突然今日の朝になって、メンバーの一人の女の子にキャンセルされ、その代役を頼まれたのだ。



「ね、冬矢さんには絶対黙っとくから!」


千佳は、悪戯っ子の表情を浮かべ、白い小指を立てる。





冬矢は優しい男だ。一度だけこの文句に誘われて興味本位で合コンについて行き、
その二次会の居酒屋で冬矢に遭遇してしまったことがあった。

だけど、彼は笑顔でこう言ったのだ。"付き合いも大事だよな"と。



合コン、とさえ名前が付かなければ、ただの付き合いでしかない。
お酒の席で、みんなで遊んで。気の合う人が見つけられればそれで良し。

私もそう割り切っていた分、冬矢のその理解は、本当にありがたかった。





「もう、しょうがないんだから」


唇を尖らせつつも、少し強引に、その白い指を掴み取るように自分の小指を絡ませる。



「ありがとーっ」


途端、満面の笑みを浮かべた千佳に、私はまたやってしまった、と心の中で自分に毒づいた。
こうやっていつも、千佳にはのせられてばかりだ。
付き合い上手、遊び上手な千佳は、私の扱いが上手い。





「今日イケメン多いらしいから、頑張らなきゃ」


笑顔で言って、千佳は唐揚げを箸で摘み頬張る。

確かに今日の千佳の服装は、気合が入ってる。
胸元に白い大きなシフォンのリボンが付いた黒いアンサンブルニットに、ピンクのシフォンスカート。
いつも通りの格好をしている私とは大違いだ。

メイクも、いつも以上にマスカラで睫毛が伸ばされ、暖色がたくさん取り入れられている。





「三國大にイケメンなんているんだ?」


嫌味に言った私に、千佳はもちろん、と意気込んだまま力説する。





「そっか。亜季ちゃんも三國大だったっけ」


ぴくり、と無意識のうちに箸を持つ手が動く。
どうかした? とでも言いたげに、千佳の大きな瞳が動いた。



一つ年下の妹、亜季は、去年三國大に入学した。
お嬢様大学、と名の知れた私たちの大学、茨崎女子大とは正反対と言っていいほど、
活動的で男の比率の方が高い学校。





「そうなの。イケメンいないって嘆いてた」


平静を装うように、ジョークを交えて何とか会話を繋げる。
箸を持ったままの手が、微かに震えた。そうなの? と千佳は何も気にしない風に、ころり、と笑う。
苦笑で続けた。





やっぱり私には、過去を気にせず突き進む、なんて、出来やしないんだ。
心底思い、私は下唇を噛んだ。






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