ナイフ
01



すっ、と紅い線を描く。傷だらけで凹凸ばかりの肌を、その紅と同じ色の液体が伝う。

寝転がって、空に手をかざす。
相変わらず、空は曇っていた。風が吹き、それに液体が震える。



「あ、いた」

聞き慣れた声が耳に届き、私は身体を起さずに顔だけを横に向ける。



「早瀬」


私は、耳栓代わりに耳に突っ込んでいた最新型のイヤフォンを引っこ抜き、
彼の名を呟く。



「お前はよ」

歩いてきた早瀬は、私の頭のすぐ近くに腰を下ろす。



「授業さぼんなや」


そうはにかんで、彼は私の頭を、ドアをノックするように軽く小突いた。
身体を起し、折りたたみナイフを音を立てて閉じる。



早瀬は、クラスメートでも何でもない、ただの知り合い。

だけど、クラスからも孤立して親からも周りの大人からも見離された、
このどうしようもない私の傍に黙っていてくれる、温かい存在。


畳んだナイフを、乱暴にブレザーのポケットに突っ込む。






リストカットを始めたのは、中学二年の頃。
中二の時に父親が死んだこと、それが原因だった。


交通事故だった。偶然起こった、どこにでもあるような事故。
少なくとも世間はそう思っていたし、私だって最初はそう信じていた。

しかしその後、父が書いた遺書が見つかったのだ。



見つけたのは私だった。研究者である父の部屋にただ一つある、
隠し扉の向こうの書庫。そこに彼は確固とした証拠を残していた。

家計に苦しくなった家を救うための、保険金目当ての自殺だった。



それから母は感情を失くしたように働き、滅多に家には帰らなくなった。
私は荒れ狂い、頭髪を父の血と同じ色に染め、ナイフを常時持ち歩くようになった。



悲しみに耐えられなかったからだ、なんて言わない。父のせいにも、したくない。
これは、自分のせいだ。私一人の問題でしかない。












「姉ちゃん」


部屋でナイフにこびり付いた血を拭き取っていると、弟がノックもなしに勝手に
入ってきた。私は咄嗟にナイフを自分の体の後ろに隠す。



「今、何隠した?」


眉を顰めて、少しばかり咎めるように拓海は言って、私の後ろを覗き込む。



「別に何も」


拓海は、こんなどうしようもない世間の恥とも言うべき姉と、まともに話をしてくれる。

もう中学二年生にもなる思春期真っ盛りの拓海が私の部屋によく訪れるのも、
私を心配してのことだろう。


きっとリストカットのことも、知らないはずはない。
だけどだからこそ、話すわけにはいかなかった。

彼まで、大事な弟まで、私と同じ闇に染めるわけにはいかないから。



私が黙って目を逸らしていると、拓海は私の腕を掴んで引っ張った。
驚いた私に構わず、私の手に握られたままの黒い塊を見つめる。



そして強引にそれを私の手から奪い取り、片手で色々と遣り繰りして、
ナイフを広げ、おおっと歓声を上げた。



「危ないよ」

ナイフを弄りながら楽しそうにしている拓海に、私は冷静に声をかける。



「いいなーこれ。ちょうだいよ」

拓海はナイフを畳んで、私を見てはにかむ。



「だめだよ。あんたにはまだ早い」


だからと言って、私には合っているかといったらそうではないが、今は他に、
言い訳が見つからなかった。


まさか弟に、それがなければ私は生きていけないなどと言うわけにもいかない。



拓海は散々ナイフを眺めて、そのまま寝る時間になるまで私の部屋で遊んでいた。






小学生の時に父親を亡くして、それから母親にもまともに愛された記憶がない
拓海は、きっと私と同じように、苦しい思いをしてきただろう。


私だけが、こんなことに逃げている。私だけが――。












「お前が殴ったんだな?」


生活指導の男性教師の声が、妙に嫌らしい。人を殴ったくらいで、
何故校長室に呼び出されなければならないのだろう。



「そうだよ」


答えながら無造作に突っ込んだ手が、ブレザーのポケットの中で
眠っていたナイフに触れる。



「理由は?」


黙って手を擦り合わせていた校長が、眉を吊り上げて尋ねてくる。



「別に。殴りたかったから殴っただけ」


私が顔をツンと背けてため息混じりに言うと、そこに集まった数人の教師が
一斉に落胆のため息をついた。

ため息をつきたいのは、私の方だった。だけど今ため息をついたら、
たったそれだけで退学になる事は目に見えている。




退学になるのも、別に構わなかった。学校なんて大嫌いだった。
学校から学べるものなんて、何もない。寧ろ私は、失うものばかりだったから。


だけど、学校に居なければ、私には本当に居場所がない。
元より学校にも自分の居場所などないのだが。





「まぁいい。今日はもう帰りなさい。処分はまた連絡する」


校長が眉間に深い皺を寄せて、黒い革の椅子に座った。

私は黙って校長室を出て、長い事堪えていた深いため息をついた。






home   novel   top   next