ナイフ
02



水が流れる音が、妙に響いている。ナイフを手に持ったまま下を覗き込むと、
荒れた川の水面にぼんやりと私の影が映っていた。


いつの間に、こんなにも寒くなったのだろう。いつもそうだ。気付けば
あっという間に季節が過ぎていて、私はいつもその時間の中から取り残されている。



本当は、殴るつもりなどなかった。いつものように、
あんな奴らの言葉など聞かなければ良かったのだ。





「そこで何をやってる?」


男の怒鳴り声が聞こえて、私はうんざりしながら振り返る。
全校生徒に気持ち悪がられている、うちのクラスの担任だ。




普段外ではあまり見慣れないためか、交通量が多いこの大きな橋にこの人は
不似合に感じる。だけどそれ以前に、ナイフを持った赤い髪の女子高生というのも、
やはりどこか不自然だった。



「二ノ宮じゃないか」

振り向いた私の顔を見て、担任はあからさまにばつの悪そうな表情をした。



「ちょうど良かった。後でお前の家に電話しようと思っていたんだ」


どうせ今日のことだろうと思い、私は担任から目を逸らす。
私もちょうど良かった。母親に今日のことを話されるのも、私としてはいい迷惑だ。



「処分、決まったぞ。一週間の自宅謹慎だ」


担任は見下すようにそう言い、意味深長な笑みを浮かべた。たったこれだけのことで
停学とは、思っていたよりはるかに下らない学校だったらしい。

私はそう思い、また手すりに寄りかかる。



「何だそれは」


担任が、まだ刃先を出したままだったナイフに目を光らせ、私の腕を強く掴んで、
強引にナイフを取り上げた。



「何だこれは」

もう一度繰り返し、ナイフをかざして私を睨みつける。



「見て分かんないかね」


私は呆れながらそう言って、掴まれたままだった腕を振り解く。
丁度掴まれた位置にあった傷が疼いて、私はつい顔を顰めた。



その瞬間、すぐ横を黒い物体が舞った。私は驚いて言葉を失くし、
担任の方を呆然と見た。担任は私を嘲笑うように一瞬見る。



「あんな物持ってるから、こんなことになるんだ。もう俺に迷惑をかけるな」


担任はそう言って鼻で笑い、私の横を通り過ぎた。

私はすぐさま橋から川を覗き込む。放り投げられたナイフは、濁流の中では、
一切見えなかった。



狂いそうな勢いで私は走り出し、河原に鞄を投げ、
そのまま川の中へと無心で入っていく。


川の流れがあまりに強すぎて、幾度も倒れそうになる。それでも私は、
無我夢中で水を掻き分け、ナイフが落ちたと思われる付近まで行った。



茶色く濁った水の中を幾ら手探りで探しても、砂利が手に触れるだけだ。
次第に失望と絶望で、視界が滲んできた。


こんなにも冷たい真冬の川の中で、私は何をしているのだろう。





"二ノ宮沙良って、中二の時に父親死んでから狂っちまったらしいぜ"
"あぁ、私も聞いたことある。すごい貧乏な研究者の父親だったとか"
"うわっ、そういうの超キモイんだけど!"
"でもあいつ、ファザコンっぽいじゃん?"
"それ最悪ー! でも超いえるよね"




今し方聞いたばかりのクラスメートの声が、頭の中に響いて木霊し、
何重にも重なって私に纏わりつく。





私だって、父親のことが嫌いだった。
毎日部屋に篭って、語ることは小難しい事ばかりで。

だけどそれでも、ただ一人の大事な父親だった。



私は川の流れに足を押されて、呆然と水の中にしゃがみ込む。
冷たさも、汚さも、人の目も、もう何も気にならなかった。


無意識に、耐え切れないほどの涙が、この川のように溢れ出してくる。




ナイフが、ない。もう、逃げ場がない――。

私は声の限りに叫び続け、何度も荒れた川の水面を殴った。












冷たい風が吹き付けてきて、まだ生乾き気味だった制服が、一層冷えた。



「沙良、何やってんだよ」


後ろから名前を呼ばれ、私は驚いて振り返る。息を切らせた早瀬が、
廃墟ビルの屋上のフェンスの前に立っている私を睨み付けた。



昨日は結局家にも帰らず、一睡もしなかった。風邪を引いても構わなかった。
必死で探し続けた。それでも私の手に、ナイフは未だ戻らないまま。



きっと五階建てのここから落ちれば、確実に死ねるはずだった。
だから、一人で死なせてほしかったのに。



「お前、携帯にも出ねぇし、家にも帰ってないんだろ?」


早瀬が呼吸を整えながら、前屈させていた身体を起こす。
私はフェンスに手をかけたまま、首だけで早瀬の方を向いて黙った。



「死ぬな」

はっきりと言い放った早瀬は、まだその強い瞳で私を捕らえている。



「何で」

私は冷静に答えて、車が高速で走る道路を見下ろす。



「俺が、嫌だから」


普段だったら、そんな歯の浮くようなくさい台詞、鼻で笑って跳ね返しただろう。
でも今は、笑えなかった。



「そんなの、私には関係ない」
私は早瀬の真っ直ぐな瞳を睨み返す。



「関係なくねえだろ。死ぬなよ、沙良」


意味が分からなかった。こんなどうしようもない人間、意味がない。
誰にも認められなければ、誰の役にも立てないのだから。

そんな人間が生きていたって、邪魔なだけだ。



私は早瀬の言葉を無視し、フェンスに上り始める。
その手を、他の誰でもないただ一人が掴んだ。

世界中の中でも、今の私を引き止めてくれるのは、このただ一人なのだろう。



「何」


私の手の冷たさとは正反対に、早瀬の手は、温か過ぎた。



「絶対死なせない」

早瀬は手の力を強め、力強い瞳で真っ直ぐに私を見つめる。



「絶対、死んでみせる」


私は更に上っていき、そのフェンスを飛び越えようとする。
その瞬間、更に強く早瀬に腕を掴まれた。


傷が、もうここにはないナイフが付けた傷が、猛烈に痛んだ。
その痛みのせいで、私がまだ生きている事が認識できて、悲しくて。



「死なせない」


早瀬はもう一度繰り返して、私を睨みつける。その瞳からも、掴まれた手からも、
早瀬の真剣さが痛いほどに伝わってきた。

それが、今の私の心には、あまりに痛すぎて。




どれだけの間、そうしていたのだろう。二人の間では、時は完全に静止していた。
それが一瞬だったのか、それとも永遠だったのか、私には判別が付かなかった。



早瀬はゆっくりと私の腕を放し、黙り込んだ。
私は再び、先ほどと何も変わらない道路を一瞬見下ろし、浅くため息をついて、
浮いていた足をコンクリートに着ける。



そして少し早瀬を通り越したところで、一度立ち止まった。
風の音が、騒がしかった。




「いつか絶対、死んでやるから」

そう一言、呟く。


それは背後にいる早瀬に向けた言葉なのか、それとも願望なのか。
それすら分からなかったが、それでもいいと思った。



癖で、腕を突っ込んだポケットは、当然のように空だった。
不在のナイフを思いながら、私は廃墟のビルを後にした。












「新しいナイフ、買ったんだって?」

屋上に寝転がっていた私のすぐ隣に、早瀬が座る。



「ああ、これのことね」


私はそう言って畳んだまま手に持っていたナイフを片手で勢いよく広げ、
くるりと一回転させた。



「どう? 性能は」

早瀬はからかうように私に尋ねてくる。


見た目もシンプルになって、軽くなったと同時に、切れ味が抜群になった。
さすが高額を出して買っただけある。



「試してみる?」

私はナイフを早瀬に差し出して、笑いながら聞いてみた。



「結構です」

早瀬は真面目に答えて、すぐに破顔した。私も釣られて笑い出す。



傷の数は、一向に減らない。寧ろ増えるばかりだ。
だけどその分、笑える数は、少し増えたかもしれない。


隣にいてくれる、誰かさんのおかげで。







END






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