俺と彼女と…
 


「ばーか」


耳に残らない、胸のどこかに残る低音。
それに重なった、まるで幸せを主張するかのような明るい笑い声に、胸が痛んだ。


見覚えのある、白いワンピースが画面の中で揺れる。それは、あっという間に砂嵐に飲まれた。
さっきまで耳にあった音は消えて、部屋には不快な雑音だけが響く。







彼女に会う事がなければ、俺はこんなに悶々と悩むことはなかっただろう。
そんなことを考えた自分を、胸の中で嘲笑した。


もう、出会ってしまったんだ。後戻りは出来ない。そんなところまで来ていた。





たとえこの恋を、彼女がいつか忘れてしまっても、俺には忘れられない。
彼女にとっての"一瞬"を、俺は忘れない。忘れたくない。










01






出会いは、今から丁度五ヶ月ほど前だった。
出会いと言っても、俺が勝手に彼女を見かけただけで、彼女とは今も当時も何の面識もなかったけれど。


暑い八月の日、彼女は歌っていた。
大学内の図書館に向かおうとしていた俺に、彼女は語りかけるように歌っていたのだ。





俗に言う、一目ぼれだろう。無論彼女は美人で秀才、男には嫌になるほど人気があった。
だけど自分が彼女に抱く感情は、決してそんな汚らわしいものじゃない、とそう勝手に思い込んでいた。



友人に聞いたところ、彼女はあの日臨時でバンドに借り出されていたらしい。
でもそんなことは正直俺にはどうでも良かった。


興味があるのは、あの日歌っていた歌ではなく、その周りのサウンドでもなく、
彼女のどこか悲しそうな表情と、彼女自身、そしてその彼女の口から発せられる、何とも綺麗な歌声だった。







「おい、また彼女のことか?」

俺の物思いを何の躊躇いもなく断ち切った武人は、悪びれなく笑いを混ぜる。





「別にいいだろ」


その言葉と共に吐き出したため息が、手元のノートにぶつかる。
細かく綺麗に書く気も薄れてきた、そんな頃合いだ。教授の声はBGMのように果てしなく流れていく。


法学部の彼女と心理学部の俺とでは、同じ文系でこそあるものの、
内容もレベルも格段に違ければ、接点もない。


大体にして、何も考えずに「楽な心理学部」に入った俺と、恐らく何らかの志を持って法学部に入ったで
あろう彼女とでは、価値観の上でも大きな差がある。ありすぎるのだ。





「『Choice』つまり、選択。チャック・スペザーノ博士はこう言った。人間はどんな立地条件にあっても
未来を選択する事ができる、と。また、マーフィー博士は「思考は現実化する」とも言っている。

所定の目標を達成しようとする時、あらかじめ周囲に目標を宣言すると責任感より達成率が上がるという
現象を宣言効果というが、それには潜在意識が大きく関わってくる。

あることを強く思い込む、又は言い聞かせる事によってそれが無意識下で繰り返されるようになり、
その潜在意識によって現実と創造の違いが脳で理解できなくなる。

そこで現実と創造が重なり、創造が現実化するということが起こり得るのである。
宣言効果というのは口にすることによりその目標が潜在意識へと変化しやすくなるために起こる現象である。


つまり、だが。強く思い込むことによって人間は未来を自分の手によって創り上げる事が出来るのだ。
よって、俗に言う奇跡ということも、有り得るわけだ」



今日はパワー・オブ・マインド、つまり精神力についてだ。
真新しい黒板には大きく乱雑な字で、マイマインドと表されている。



何度も夜眠る前、彼女を想った。だが、それは"奇跡"だと前提した上での妄想でしかない。


大体にして、思考を潜在意識にしてしまうほど思い込みや念力の強い人間が、果たして存在するのだろうか。
そんな人はいたとしても極少数で、それも俺たちみたいな一般の人間に紛れてるわけではなく
既に抜粋された人間なのではないだろうか。





要するに、"奇跡"は有り得ないのだ。
奇跡とは元々、常識で考えては起こりえない不可解な現象を差すのだから。

そんなことは確率的に考えても滅多に起こらないことで、まさかそれが自分の身に起こるだなんて
確信を持てるような人間でもない。確信さえ出来なければ、同時にチャンスすら失うのだ。

"Choice"する権利など、俺にはないということになる。







「なあ、この後どうする?」


思考を巡らせていた俺は、武人の声に我に返る。
いつの間にか、教授は教壇から姿を消していた。人々はそれぞれに動き出している。



今日はもう講義がない。そんな日にはいつも武人や他の仲間と飲みに行っていた。
だが今日はそんな気分にもなれない。どうにも、朝から鬱々とした霧が頭を支配しているのだ。



「俺、今日はパス」


単語のように一言で切り捨てた俺に、武人はつまんねえ、と短く息を吐く。
ノート類をショルダーバッグに乱雑に詰め込み、俺は奴より一足先にキャンパスを出た。







家は近い。キャンパスから一キロと離れていないだろう距離だ。無論、そこを基準に選んだ部屋なのだが。

各部屋のベランダが胸辺りまでの柵と空間でしか仕切られていないというのが少しばかりの欠点だが、
仕切りのない寝室付きにも関わらず予想外なほどに安値なその部屋は、文句を言うに値しないものだ。

今年の夏ごろだった。毎日毎日馬鹿みたいに通うのが嫌になり、その部屋に急遽移り住むことにしたのだ。


隣人はよっぽど暇なのか、植木鉢に花を植えるほどのまめさ。
顔は見たことがないが、女性なのは確かだ。そんな穏やかさも、胸を温かくさせてくれる要因なんだろう。



おかげでここ半年ほど、夜が急速に過ぎていくような感覚があった。
今日も例外ではなく、俺は別の世界に引き寄せられるように夢の中へとおちた。












次の日は嫌に暖かかった。
無論午前中はゼミと図書館を行き来していただけだったため、気温はさして気にさせられなかったが。





「もううんざりだね。女なんて」


恐らく今日十数回目のため息と、言葉。食堂は相も変わらず混み合っていた。

武人も、武人だ。中学生の思春期真っ盛りの頃から女を月に一度の頻度で変える癖がある。
それも、飽きやすい性格が災いしてなのだが。



「いい加減懲りろよ。その台詞何回目だ」


俺の記憶するところでは、何百回もその口から吐き出されている台詞だ。
少し束縛の要素を見せただけでうんざり呼ばわりされる女たちも、いい加減可哀相に思えてくる。





「あ、マドンナ」


突然顔を上げて呟かれた単語に、俺は頭をかっと熱くする。
武人が呼ぶマドンナは、彼女……春日菜月だ。振り向きたかったけれど、振り向くことすらできなかった。



「おい、こっち来るぞ」


声を極端に潜めて言った様子から、彼女がかなり近くにいるだろうことを予想する。苦しくなった。

ちらり、と隣の席を見遣ると、その席に座っていたはずの男子学生はいつの間にか跡形もなく消えていた。
見つめていた椅子に、細く綺麗な指先がかかる。



「あ、菜月……っ」


声のした方へと視線を向ける。その瞬間、水音がして右腕が濡れた。
俺の腕の近くに落ち、そのまま転がりそうになったグラスを反射的に受け止める。



「すみませんっ! 大丈夫ですか?」


顔を少し上げると、目の前に泣き出しそうな顔の彼女、春日菜月がいた。
固まりそうになるのを必死に耐え、頷く。



「もう、何やってんの」


彼女の向かい、武人のすぐ横に座った彼女の友人らしき女が、呆れたように大きく息をつく。
ごめん、と彼女が小さな声で呟いて、もう一度俺に頭を下げた。



「気にしないで」


少し赤く染まった彼女の頬を見て、俺は慌てて口走る。武人が反対側で、にやついたのが分かった。
もう一度頭を小さく下げた彼女は、音も立てずに俺の隣に腰掛け、ランチセットに箸を付け始める。







「どうしたの、ぼーっとしちゃって」


咎めるように言った友人に、彼女は俯いて首を小さく左右に振った。
頭の上で結い上げられていた髪が、揺れる。微かに花のような甘い匂いがした。



「この間の試験も最悪だったって言ってたじゃない」


少しからかいを交えた口調で言った友人に、彼女は弱弱しく微笑んだ。



「このところ、どうも駄目みたい。全然集中できてなくて……」


見ないように、聞かないように、と気をつけるものの、どうにも本能が叫んでしまう。
集中できてないのは俺の方だ。私もよ、と友人はため息をつく。彼女は少し悲しそうな笑みを作った。





「おい、行くぞ」


時計は見ていた。だがもう少し、と叫び続ける本能に従っていた。
それを武人がいつも通り無神経に断ち切る。俺は仕方なしに眉間を寄せ立ち上がる。

がたり、とすぐ隣の椅子が音を立てた。





「あの、本当にすみませんでした」



先ほどと同じく、どことなく遠慮がちに言って頬を染めた彼女に、俺は首を横に振る。



「本当に、気にしなくていいから」


笑った直後、あ、格好つけたな、と自分自身を心の中で罵る。
きっと彼女以上に気にしているのは自分だ。

ここから何か繋がるんじゃないかと、そうどこかで期待してることには気付いていた。


また彼女は、泣きそうな笑みを見せる。ぐいっと肘で腕を押され、俺は促されるままに歩き出した。





「幸せな時間は一瞬、ってな」


茶化すように、奴は笑う。少し足を速めなければ、午後の講義には間に合わないだろう。


俺はもう一度時計を見て、さっきまで彼女の隣でこれを見ていたんだな、と思いつつ、
もう一度心の中で毒づいた。






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