俺と彼女と…
02


たん、と閑静な住宅地に靴音が響く。


ここ最近、急速に闇はその割合を大きくしていく。
キャンパスから部屋まで、歩いて数十分と満たない距離であるのに、その間にも闇は深まり続けていた。



コンクリートの階段を上り終え、そのせいで音を満たしていた周囲も、少し静まる。
俺は歩みを止めずに、ポケットの中に無造作に、鉄の塊を求め手を突っ込んだ。と、足を止める。





鉄の塊は目的どおりあった。部屋もいつも通り、そこに位置していた。

ただそこにあったのは、人影と、求め続けていた匂い。




「あっ」


小さく人影が揺れ、音を発する。
闇の中ではその姿や表情ははっきりとは窺えなかったが、それでも嫌というほどに鼓動は高まる。



「あの、今日はすみませんでした」


おずおずと頭を下げた彼女に、俺は未だ動くことができず。
ポケットの中に突っ込んだ手が鉄の塊に触れ、小さな鈴音を響かせた。




「君、ここに住んでるの?」


漸く掠れた声で絞り出した声は、その鈴音にさえ掻き消されてしまいそうだった。
彼女は少々顔を赤らめ、頷く。



「あなたも?」


遠慮がちにこちらを見た彼女は、尋ねる。先ほどの彼女と同じように、俺は小さく頭を下に振った。

頭が追いついていかず、未だに堂々巡りをしている。
それに釣られるように、少し落とした視線の先も、少しずつ歪んでいく。





「春日菜月」


何度となく脳裏で繰り返した名前が唐突に呟かれ、俺は反射的に顔を上げる。
彼女が、頬を少し赤く染めて微笑んだ。



「私の、名前」


恥ずかしそうに言った彼女の薄い唇と唇の隙間から、ちらりと八重歯が覗く。
呼吸が段々と、浅くなっていくのを感じた。




「俺は、藤井智也」


重たい靴を引きずり、俺は一歩、また一歩と足を前に押し出す。
俺の部屋の前で、その足を止めた。彼女が、その白く細い手を差し出す。





「隣同士、仲良くしてくださいね」


彼女は、ビー玉のような瞳を細め、八重歯を見せて笑った。遠慮がちに、伸ばされた手を握る。
頭で鼓動を感じられるほど、俺は高まっていた。


この瞬間が、現実だと信じることなど、俺には到底できずにいた。












「なかなか良い部屋なんだな」


胡坐をかいたまま首を回して感心したように言った武人に、
この部屋に武人を招いたのは初めてだということに漸く気付いた。


招いたつもりはない。ただ今の現状を話した途端、武人が面白がって俺の部屋に来たがったのだ。




煙草を吸い始めた武人に、俺は顔を顰めて空気を新鮮な物にするために窓に向かう。
鍵を開けた瞬間、耳に微かな水音が飛び込んでくる。



「智也?」


隣のベランダを見ようと部屋から顔を出した瞬間、名前を呼ばれて心臓を飛び跳ねさせる。



「やっぱり」

多分笑ってしまうほど呆然としているだろう俺の顔を見つけ、彼女は優しく微笑んだ。



「お花に水あげてたの」

彼女の手元を見つめていた俺の視線に気付いたのか、少し頬を染めて彼女は言う。




願った以上の奇跡が起こったあの日から、二週間が経過しようとしていた。


あれから俺と彼女、菜月は互いを名前で呼ぶようになり、歳も同じで部屋も隣だったため
共通点が多かった俺と彼女は、自分でも恐怖を感じるほどに急速に距離を縮めた。


この二週間の間に俺と彼女は、周りの仲間を誘って何度か食事にも行ったし、
夜もたまに今のようにベランダで鉢合わせすると雑談を楽しんだりしていた。


何故これまで一度も顔を合わせなかったのか、と不思議になるほど、
俺と彼女は今では親しい関係だと言えるだろう。





「おい、智也」


ベランダに一歩踏み出していた俺は、明らかに顔をにやつかせているだろう武人の声に眉を強く寄せ、
少し薄暗く見える部屋を振り返る。



「友だち?」


横から聞こえた楽しそうな声に、俺は嫌悪を抱きながらもああ、と返す。
こんな奴は友だちだなんて言うに値しない人間だ。



「さっきね、友だちからケーキ貰ったの。それが三つもあって……。良かったら一緒に食べない?」


少し遠慮がちに言った彼女に、俺は思わずぱっと笑顔を浮かべそうになり、
慌てて平静を取り戻そうと唾を飲み込む。



「いいの?」


二個ならばまだ分かるものの、三個なんていう半端な数、何かを意図してのものに違いない。


例えば、彼女がケーキがとても好きで、カフェに行った時に三個一人で食べてしまったとか……。
俺の想像を少しでも感じ取ったのか、彼女は少し顔を赤く染めて笑う。



「もちろん。じゃあ、今から行くね」


俺の部屋の方を指で指し、彼女は明るく言ってじょうろを置いた。
結い上げられた髪の先が揺れて輝き、あっという間に壁に吸い込まれて消えた。


俺は若干その余韻に浸ったままのため息を吐き、頭を手で掻き毟りながら部屋に踏み込んだ。





「彼女、来んのか?」


興味津々の、親に遊園地に行くことを告げられた小学生のように目を輝かせた武人に、呆れながらも頷く。

彼女が来ることを知っているということは、先ほどの会話は全て筒抜けだったということだろう。
なら尚更、説明の必要はない。





「お前、いつの間にそこまで進んでんだよ」


にやけながら煙草の先をガラスに擦り付けた武人から、極力離れたところに腰を下ろす。



自分自身、この現実を信じる事がいつまでも出来ず、彼女との間に起こった奇跡を武人に打ち明けたのも、
つい最近の話だ。



だけど武人が指したような、そんなことは少しもない。

彼女が俺の部屋に来ると言ったのは今日、今この時が初めてのことだし、
まず二人きりで約束して、などということも一度もない。



瞬間、思考の全てを遮るチャイムが部屋に響く。
にやついた武人の頭を立ち上がった勢いに乗せて小突き、鉄の扉へと向かう。




鍵を開けて扉を押すと、柔らかな笑みを浮かべた彼女が白い箱を持って立っていた。
少し後退して、彼女を土間に招き入れる。



先を歩き始める彼女の小さな背中を見つめ、俺は胸の中にどうしようもなく疼くものの存在を感じていた。






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