俺と彼女と…
03


「じゃあ、準備してくるね」

一旦絨毯に腰を下ろした彼女が、再び膝を伸ばし白い箱を手に台所へ向かおうとする。



「お皿とか、自由に使っていいから」

背中に声をかけた俺に、彼女は小さく振り返り、明るくうん、と答える。





「良い尻だな」

声を潜めて言った武人の隣に、俺は浮かし気味にしていた腰を下ろす。



「どこ見てんだよ」


にやけながら、たった今壁の中に消えた彼女の姿の余韻を楽しむようにしている武人に、
俺は呆れを通り越して頭痛がした。

少しでも良い女を見つけるとすぐこうだ。性格よりまずは身体のチェック。昔からの、武人の悪い癖だ。





「普通そこ見るだろ」

「この野蛮人が」


胡坐をかいた膝に肘をつき、俺は盛大なため息をつく。
こいつと彼女を巡り合わせたのは、やはり間違いだった。





「何だよ、もしかしてお前胸派か? まぁ確かに、彼女は胸も良さそうだけどな」

「死んどけ」

一言で切り捨てた俺に、武人は不気味で下品な笑い声を上げる。



台所の方から、微かな物音がした。


一カ月前まで、まるで女神を見るような気分で、遠くから見つめていた彼女。
今同じ空間にいるなんて、やっぱり簡単に信じられることではなかった。でもこれは現実で。

事実俺は、何度か彼女と食事にも行っているし、昨日も一昨日もベランダでの雑談を楽しんだ。
これを嘘だなんて言ったら、彼女に失礼だ。





「お待たせっ」


適当な種類の異なるマグカップを三つ、それとケーキの乗った小皿をトレーに乗せて来た菜月は、
笑顔を見せて俺の向かいに腰を下ろす。小さく、陶器が音を立てた。



「ここのケーキおいしいの。どうぞ」


俺に浮かべるのよりは少し余所余所しい、整った笑みを浮かべ、
菜月はその綺麗な細い手で皿を武人の前に置く。

ありがと、とこれまた女向けの甘い笑顔を浮かべた武人は言う。とんでもなく胸くそが悪かった。



「はい」


同じように俺にも皿を差し出した菜月に、笑顔で礼を言う。
武人が隣で、唇の両端を吊り上げたのが分かった。





「ね、菜月ちゃん彼氏とかいんの?」


元々猫背のその身体を更に前に乗り出し、武人はフォークを宙に浮かせたまま愉快そうに尋ねる。
吐き気がした。



「いるわけないでしょ」


目を細めて、軽快に笑う。直接は、怖くて聞けなかった問い。

食事に付き合ってくれるくらいだから、いないんだろうとは思っていたけれど、
それでも魂が口から抜け出てしまいそうなほど嬉しかった。





「んじゃ、好きな奴は?」


一口ケーキを口にした武人は、にやり、とした笑みを浮かべながら質問を並べる。
正直、このまま空気に混ざってしまいたかった。



「んー、最近できたかな」


彼女も彼女で、大層楽しそうにケーキを頬張りながら言う。
きっと今の俺は、顔色が一秒に十回ずつ変わっているだろう。おかしくなりそうだった。

武人は武人で、うひょーまじで! とか意味の分からないことを興奮状態で口走っている。本当に……。





「ね、いつも一緒にいるあの美人な子、なんつーの?」

興味津々で尋ねた武人に、俺はようやくほっと息をつく。



「春奈のこと?」


きょとん、とした表情で菜月は尋ね返す。俺にはその質問の意味が一瞬で掴めた。
女なら基本的には誰でも可能、という武人だが、中でもあの子のような気の強そうな美人はタイプ中のタイプだ。





「その子彼氏いる?」

予想していた通りの、大胆で直球な武人の質問に、菜月は声を上げて楽しそうに笑い出す。



「いるよ、超あつあつの」

片手で軽く口を覆いながら、笑い声の混ざった声で言う。



「マジで! あー、ちょっと狙ってたのになぁ」


大袈裟に、それでも冗談交じりに言った武人に、更に菜月は笑う。
あんなに美人な子に彼氏がいない方がおかしい。

そうだ。菜月に彼氏がいないことだって、おかしいくらい奇跡に近いことで。





「そういえばさ、なんでケーキ三個も貰ったの?」

武人が、最後の一口を口にしながら眉を上げて尋ねる。



「私、兄妹が二人いるの。だからだと思う」

菜月も最後の一口を口に放り、言う。兄妹がいるなんて、初めて聞いた。



「お兄ちゃん?」

マグカップを口に運びながら尋ねた武人の言葉の語尾が、少しくぐもって聞こえた。



「お兄ちゃんとお姉ちゃんが一人ずつ」


少し嬉しそうに頬を染めた菜月に、武人はへーえと興味深そうに頷いた。
俺の想像は的外れだった、ということか。












「武人君、帰った?」


暗闇の中に、室内からの明かりによって若干照らされた彼女の白い肌が浮かび上がる。



「あぁ。また一緒に遊ぼうって言ってた」

嫌々と口にした俺に、菜月は身体を揺らして笑い、そうね、と頷く。



彼女と三人でケーキを食べ、その後色々な話をして盛り上がった。

これ以上長居しても悪いから、と言った彼女が部屋を去ってから、あいつは散々俺を冷やかした
挙句去っていった。奴は菜月をやたらに気に入ったらしく、また来る、と捨て台詞を残していった。





「ね、智也」

ベランダの柵から、身を乗り出し、彼女はこっちに顔を寄せる。その仕草に、心臓が飛び跳ねた。



「さっき言った私の好きな人、気になる?」


触れられたくなかった話題に直接足を突っ込んできた菜月に、驚いて彼女を見つめた。
その真っ直ぐに俺を覗き込む瞳は、俺を試しているようにも見える。



「ああ」


正直に、その瞳を見つめ返して頷く。

何を考えているか、なんて探ったって、彼女のことを元々知っているわけではない。
なら罠をかけられていたとしても、挑発に乗るしかない。





「当ててみてっ」

楽しそうに声を弾ませて、彼女はそのチャーミングな八重歯を覗かせる。



「俺の知ってる奴?」

ヒントを得ようと、まず一つ尋ねる。菜月は相変わらず楽しそうに笑っていた。



「うん、すごく」

頷くと、結い上げられた髪が、彼女の動きに合わせて揺れた。





「……武人?」


信じたくない、というよりは絶対にないことを願い、半信半疑のまま口にする。

俺がすごく知ってる奴で、彼女と関わりのある人間は少ない。
今日、武人と愉快そうに笑い合っていた菜月の姿が、脳裏にくっきりと浮かび上がる。





「バカ」

拗ねたように唇を少し突き出して上目遣いに俺を見つめたその瞳は、どこか嬉しそうだった。



「本当はもう、分かってるんでしょ?」

菜月の言葉に眉を寄せる。見つめた先の彼女の顔が、あっという間に赤く染まって、耳までその侵食を進めた。





「好き」



小さく呟かれた言葉に、全ての時が止まった。心臓までも、驚いてその動きを止める。
意味が、飲み込めなかった。真っ赤に染まった菜月は、少し俯き、また顔を上げる。

少し潤んだ瞳で俺を見つめた菜月に、胸が高鳴っていく。





「私、智也のことが好き」


ようやくそれが、胸に行き届く。手の甲で口元を押さえた彼女は、照れたようにはにかんだ。

色んな言葉が浮かんでは消えていく。嘘だろ、とか、ありえない、だとか。
だけど、彼女はそんな言葉を一つも望んでいないことを知っていた。





「台詞、全部取られたな」

ようやく搾り出した言葉に、彼女が目を見張った。その大きなアーモンド形の目で、俺をしっかりと捉える。



「俺も、菜月のことが好きだ」


若干震えた声で、ずっと伝えたかった言葉を搾り出す。
菜月の目が、本当に? と少し悲しげに俺を見つめた。


どうせ夢なら、覚める前に味わい尽くしたい。そんな気分だった。
彼女が俺を好きになるなんて、それくらい奇跡に近いものだった。



俺を真っ直ぐに見つめ続ける、その熱く潤んだ瞳。
俺はそっと、彼女のその白い肌に指を近づけた。触れた瞬間、指先から溶け出してしまいそうで。

少しだけ顔を寄せた俺に、菜月がゆっくりと瞼を下ろす。すぐ目の前に迫った長い睫毛が、僅かに震えていた。
至近距離で彼女を見つめたまま、その唇に視線を這わす。甘い花の香りがした。そっと、唇を寄せた。


触れた柔らかな温かい感触。危うい自分の理性に気付き、眉を寄せて唇をゆっくりと離す。
本当は、喉から手が出るほど、もっと、と何かを求めていた。





「智也……」


熱を持った目が、俺を見つめる。もう一度、今度は躊躇いなんかの時間を捨て、唇を触れ合わせた。
内側から、壊されていくような感覚が俺を襲う。

さっきよりも時間に余裕を持って、唇を離す。


菜月が、ふふっと小さく、可愛らしい妖精のように笑った。の笑顔を俺のものにしたい。そう、改めて強く願った。






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