俺と彼女と…
04


「智也っ」


楽しそうな声と共に、こつこつ、とヒールの足音が近付いてくる。
でかい看板を見上げていた俺は、振り返り、目を細めた。




「お待たせ」


極上の笑みを浮かべた彼女に、鼓動が早まる。

こげ茶のニットに淡いピンクのフリルスカートで現れた彼女は、いつもは結い上げている
その若干赤みがかった髪を下ろして巻いていた。白い肌に、花が咲いたような愛らしい笑顔。

太陽の光よりも何よりも、彼女自身が眩しかった。





「行こっ」


八重歯を見せて、彼女は俺に弾んだ声で言う。頷いて、俺は歩き出した彼女を追った。





唐突に、何処かへ行こう、と菜月が言ったのは昨日一緒に学食で昼食を取っていた時だった。
普段は滅多に大学内では会わない菜月と、昨日偶然学食で顔を合わせ。

先に来ていた俺には、果たしてそれが偶然なのか、本当のことは分からなかったが。



一応交際を始めてまだ一週間だし、初デートならば気楽なところが良いだろう、
と思い水族館を指定したのは俺で。彼女も嬉しそうにその提案に乗った。





「ね、見て! 可愛いっ」


綺麗に手入れされた指先で、彼女は厚いガラスの向こうの青を指差す。
幸せそうな笑みを浮かべた彼女は、クマノミなんかよりもよっぽど可愛かった。



若干照明の落とされた青に囲まれた空間を、彼女ははしゃぎ回るように、
辺りを見回しては笑顔を浮かべて歩いていく。





「早く早くっ」


一足先に階段を上り始めていた彼女は、俺よりも若干高い位置から笑顔で手招きする。
苦笑しながらも、その後を追った。



菜月はパワフルだ。明るくて、いつも笑顔で。周りの人間も笑顔にさせてしまうような、
幼い少女のような不思議な力を持っている。

そんな彼女には、まだ若干のあどけなさも残っていて。そこがまた、魅力だったり。



上の階に辿り着き、部屋の中に入ると、そこは大きな円柱状の水槽になっていて、
そこからスロープで徐々に下へと下りていけるようになっていた。





「すごいな……」


思わず感嘆の言葉を漏らした俺に、すぐ隣に立った菜月が微笑む。
そっと、僅かに何かが俺の指先にぶつかった。水槽を見上げていた俺は、ふと視線を隣に落とす。

重なりかけていた物が、触れ合い、絡まる。


青を見上げていた彼女が、俺の方に視線だけを動かし、少し得意げに笑みを浮かべる。
苦笑した。俺は、菜月にやられっぱなしだ。



流れていく人々に合わせて、俺たちも二人でゆっくりと身体を揺らすようにして、
水槽に視線を這わせたまま足を進めていく。


絡む指の、一本一本を感じられて。その温度も、隣に感じられる気配も、全て俺の頭を狂わせる。





「なつ?」


突然、背後を追うように聞こえた、館内では目立つほどの大きな声に、俺は驚いて振り返る。
それより先に、ぱっと振り返ったのは菜月本人だった。



「貴也っ」


驚きを隠せない、という様子で短く呟いた彼女は、無意識のうちにか、それとも意図的にか、
握っていた俺の手を離した。




「なつー! まじ久しぶりだなぁ」


興奮したように笑顔を浮かべて、茶髪で長身の男が近付いてくる。
耳にはピアス、首元にはゴツいネックレス。男の後をついてきた女も、きつい香水の匂いを漂わせていた。



「本当久々だねー。元気だった?」


誰にでも向けるものとは違う、俺に向けて浮かべるような、いやそれより幾分打ち解けた笑みを浮かべて、
菜月は男を見る。



「おう、元気元気。そっちは? 聖修の法学入ったって聞いたけど」

嬉しそうに尋ねた男に、菜月は笑い声を上げる。



「もー、誰から聞いたの?」

甘えた声を出して上目遣いに男を見つめた菜月に、胸が急激に痛んだのを感じた。



「祐介から。それにしてもすげえよ。やっぱアタマは出来も違えよな」

菜月の笑い声が、続く。眉を寄せた。



「やめてよ。貴也も就職したんだって?」


苦笑しながらも言った菜月は、俺の前にいるおしとやかな表情とは違った、自然体を表していた。
まぁな、と貴也と呼ばれた男はその茶色い頭をかく。



「その頭でよく就職できるよね」

呆れたように言って、菜月は眉を上げて小ばかにしたように笑う。



「るせえよ」


どこか嬉しそうに笑った男は、菜月の肩を手で軽くぽんっと叩く。
その瞬間、俺の中で何かが壊れるような音がした。



「ねえ、貴也ぁ。この女誰なのー?」


菜月よりも高いところから、上から下まで彼女を眺め回しつつ、男にくっついていた女が尋ねる。
それはもう、男の俺でも分かるほど、敵意が浮き出ていた。





「元カノだよ」


軽く、当然のことのように言ってのけた男に、俺は心臓が一瞬止まる。

僅かながらにも希望を残しつつ彼女を見ると、それを肯定しているかのように、
また当然のような顔で平然としていた。



「んじゃ、またな」

爽やかなはにかみを浮かべた男は、片手を上げる。



「うん、またね」


同じようにはにかんだ菜月も、片手をひらひらと男に向けて振る。男は女を連れてその場を去っていった。
女はいつまでも、菜月を恨めしそうに振り返っては睨みつけていたが。





「……元彼?」


それでも愉快そうに男の後姿を見つめていた菜月に、遠慮がちに尋ねる。
顔をこっちに向けた菜月は一瞬目を丸くして、そして瞬間破顔した。



「まさか。さっきのは冗談。ただの中学の時の友だちだよ」

目を細めて、ころころと笑う。だけどさっきの男の言葉を否定しなかったのは菜月本人だ。




「でも、否定しなかったし」


俺の言葉に、菜月は目を丸くする。

本当はもっと聞きたい事があった。
元彼だと思ったのは、否定しなかったからだけなんかじゃない。



「あの女妬かせてやりたいって思ったの」


悪戯に、八重歯を見せて笑った菜月に、俺は一瞬驚き、そして直後苦笑した。

菜月はこういう女だ。悪戯が大好きな幼い少女……いや、少年のような。
無邪気でいつも楽しそうで。見ているとはらはらするけれど、だけど愉快な気持ちにさせてくれる。





「智也も妬いた?」

茶化すように明るい口調で菜月は言う。再度苦笑した。



過去のことを考えて不安にならなかった、と言ったらそれは嘘になる。
けれどこんなに美人で可愛らしい彼女に、恋人がいなかったわけがない。

全て仕方がないことだし、それを承知で付き合い始めた。
寧ろ自分がその中の一人に入れることを、光栄に思っているくらいだ。





「私ね、昔チーマーのアタマだったの」

「……え?」


唐突すぎる菜月の言葉に、俺は思わず冗談として受け流そうとした。
菜月は八重歯を覗かせて、苦笑する。




「意外でしょ? とっくに足は洗ってるんだけどね」


目を細めた彼女に、冗談ではないことを知る。確かにさっきの奴は何だか危険な感じの漂う男だった。
だけどまさか、こんなに可憐な菜月がチーマーだっただなんて思えないし、まして彼女は女だ。





「……引いた?」


遠慮がちに、眉を上げた菜月は困ったように笑って尋ねる。確かに信じられない気持ちだ。
だけど俺は、今更そんなことで怖気づいたりしない。

こんなことで彼女から離れるようなら、彼女と出会えたこの奇跡の前で怖気づいて逃げ出している。




「引かないよ」


優しく言って、彼女の手を取る。心底ほっとしたように、彼女は柔らかく笑った。






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