俺と彼女と…
05


水音が、その白い壁に囲まれた空間に響き、止まる。
まさかハンカチを持っているわけもなく、俺は水に覆われたその手を宙で一度強く振り、チノパンで拭った。


鏡のやたら多い、迷路のようなその空間を抜け出す。
暖房の効いた空間に戻ろうと顔を上げた瞬間、すぐ前に見覚えのある顔を見つけ、足を止める。





「どうも」


どこか馬鹿にしたような、気取った口調で言った彼女、春奈に頭を軽く動かした。
直接言葉を交わした記憶は、ほとんどと言っていいほど微小にしか存在しない。


壁に寄りかかってその細い腕を組んでいた彼女は、身体を起して俺を強く刺すように見つめる。
眉を寄せた。トイレに入ろうとしていたわけではないらしい。





「付き合い始めたんだって? 菜月と」


俺の全身を上から下まで、凍てつくような冷めた目で眺め回した彼女の意図が掴めず、
俺は曖昧に、まぁ、とだけ返した。



「良かったわね」


素っ気なく、だけどやっぱり馬鹿にしたように言った彼女に、更に不快感が深まり、眉間の皺を深める。


菜月と話しているのを見ていた時から思っていたけれど、彼女は愛想というものがとんでもなく欠けている。
それどころか、今の彼女はまるで女王様気取りだ。





「でも、勘違いしないでよね」

冷たく言い放った彼女は、更に眉を吊り上げて俺を睨みつける。



「あの子はあんたのことなんて、何とも思ってないから」


確信を持っているかのように強く言い切った彼女は、俺をもう一度鋭く睨みつけて、そのまま背を向け、
つかつかと歩いていった。呆然とする。




彼女が何らかの意図を持って俺と菜月を遠ざけようとしているのは分かった。
俺に嫌悪とも似つかわしい敵対心を抱いていることも。だけど理由が見つからない。


嫌われるようなことをした覚えもない。
増して、適当な敵意にしては、充分すぎるほどの確信めいた何かを、彼女は持っていた。



菜月の弾けるような笑顔が蘇る。俺は何を勘違いしていたというのだろうか。












「本当、今日は楽しかった。ありがとう」


丁寧に小さく頭を下げた菜月に、苦笑する。
顔を上げた菜月は、照れたような可愛らしい笑顔を見せた。


学生の俺にしては、少々高めの出費で彼女に奢ったイタリアン。
菜月は、どれも本当に美味しそうに、楽しそうに食べてくれた。



「俺も、楽しかった」

呟きながら、彼女の背後に視線を巡らせる。彼女にとってのゴール地点は、もうすぐそこだ。





「智也……」


さっきまで笑顔を見せていた菜月が、突然笑みを消して真剣な表情を作る。
そっと伸ばされた彼女の細い指が、俺のTシャツの裾を掴んで、絡みつく。心臓が、飛び跳ねた。



「今日は、ずっと一緒にいたい……」

目を若干伏せて、甘えるような声で言った菜月は、耳まで赤く染める。



「駄目……かな」

赤く潤んだ瞳で、彼女は俺を見上げた。高鳴りは、決して止まらなくて。




「いいよ」


優しく微笑むと、嬉しそうに菜月も目を細めて微笑みを浮かべる。
どうしようもなく、彼女が愛しかった。












白い首元に、そっと触れる。泣き出しそうな大きな瞳が、俺を上目遣いに見つめた。
唇を、そっと触れさせる。様子を窺うように、一度それを離した。彼女は照れたように、笑みを浮かべる。


もう一度唇を触れ合わせた。触れるだけじゃなく、味わうように。
イタリアンの店で食べた、ティラミスの若干苦い風味が漂う。


促すように、彼女は目を閉じたまま僅かに唇の力を緩める。
誘われるまま、そこに舌を割り込ませ、温かい彼女の口内へと滑らせた。

もっと奥へ、と理性ではない何かが、求める。




首元に遠慮がちに触れていた手を、彼女の後頭部へ滑り込ませる。
高く結い上げられた髪の、結び目をゆっくりと片手で解いていく。僅かな音と共に、空気が動く。
乱れた髪が、彼女の白い肩にかかった。

彼女の唇を味わい食べ尽くすように、自分の唇でそれをなぞる。



唇を離す。艶めいた彼女の唇に、鼓動が高鳴った。唇を這わせ、彼女の鎖骨へと辿り着く。
甘い香りに誘われるように、俺はそこに顔を埋める。彼女が、くすぐったそうに身を捩った。




かき乱すように、身体中を何かが駆け巡る。おかしくなりそうだった。
女を抱くのは、決してこれが初めてではない。彼女だって、きっとそうだ。

だけどそれでも、何かが違った。ずっと追い求めていたから、なんてちゃんとした理由があるわけじゃない。
もっと、本能的な何か。


腰の辺りに、手を伸ばす。そっとそのニットの隙間に、手を滑らせる。
びくり、と一度彼女が大きく身体を跳ねさせる。彼女よりもずっと低いところから、彼女を見上げる。

彼女は熱く潤んだその瞳で、俺を見た。





「いい?」


できるだけ優しく、そんな理性が残っていた事が、唯一の奇跡だった。

無意味な問いだ。
今更無理だと首を横に振られても、俺にはどうする術もない。ここまできて、後戻りなんてできるはずがない。


小さく、菜月が林檎のように赤く染まった顔のまま、頷く。

それを合図に、俺は深く、菜月に溺れていった。












若干湿った、その赤みがかった綺麗な髪を、抱え込むように撫でる。
俺の胸の中で菜月が微笑んだのか、素肌に僅かな吐息を感じた。



「ねえ、智也」

いつもより近い距離で、少しくぐもった菜月の声が聞こえて。



「ん?」

彼女の頭を撫でながら、少しだけ下にある、彼女の目を見つめる。





「私のこと、好き?」


菜月は、泣きそうな声で言って眉を上げる。
彼女にだって、痛いほど分かってるはずだ。俺がどうしようもないほど、彼女に心を奪われていること。



「どした? 急に」


眉を上げて、尋ね返す。少し俯いた菜月は、今まで俺の胸に当てていた手を、俺の首に絡ませた。
更に距離が縮まり、彼女の素肌を感じ、俺は心臓を飛び跳ねさせる。





「ずっと、一緒にいてくれる?」

俺の首元に顔を埋めた菜月の声は、本当に震えていた。



「いるよ」

彼女の白い背中に手を回し、ぐっと強く抱き寄せる。甘い香りが、俺の頭を支配した。




「私が、どんな女でも?」

俺に抱きつく、彼女の細い腕が僅かに震えていた。彼女の髪に、顔を埋める。




「ああ。ずっと傍にいる」


低く柔らかく言った俺の言葉に、菜月はようやく強張っていた肩の力を抜く。

元ヤンだとか、そんなくだらないことは関係ない。俺は彼女自身を、好きになったんだから。



俺はその時、幸せな甘い時間に浸っていた。この先、何が起こるかも知らずに。






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