俺と彼女と…
20


後ろから、僅かに足音が聞こえて。
ソファに腰掛け、暗く沈んでいく一方の気持ちと葛藤していた俺は、顔だけで振り返る。



首にかけたタオルで長い髪を拭き、微笑みながら菜月は俺の隣に腰を下ろした。
そして、甘えるように俺の肩に凭れかかる。甘い香りが、体温を上げた。





彼女や彼女の周りの人間が、必死に隠そうとしていることが、一体何なのか。
時が進んで、色々なことが起こる度に、どんどん分からなくなっていく。

ただ胸の中に、蟠りやもどかしさ、苛立ちが募っていくばかりで。



だけど……俺の菜月に対する気持ちは変わらない。変えたくない。





「……明後日、久しぶりにどっか行かない?」

菜月のまだ湿った頭を引き寄せ、柔らかく提案する。



「あ……、ごめん。明後日は……親戚の法事があるの」


菜月は、申し訳なさそうに眉を寄せて俺を見上げる。
俺は、そっか、と僅かに微笑みを浮かべて頷いた。



「明明後日なら大丈夫だよ」

窺うように俺を見つめ、微笑んだ菜月に、俺は笑みを浮かべて頷く。




「じゃあ、どこ行く?」

「そーだなぁ……」



俺の胸に頬を寄せて、幸せそうに斜め上の方を見上げた菜月に、
俺はもどかしくなるほどの愛情を感じた。





「最近こうやって、二人でゆっくり過ごすこと、あんまりなかったじゃない?」


菜月は少し身体を離して、俺の目を真っ直ぐに見つめる。
そーだなぁ、と色々と思い返しながら返す。



二人っきりで部屋などで過ごす、なんてしばらくしてない。

いつも学食では武人がいて、部屋では龍や愛さんと一緒で、なんて、
二人の時間がほとんどと言っていいほど持てずにいた。




「だから、部屋でのんびりしたいかも」

溶けそうな笑顔で俺に言った菜月に、俺は微笑んで分かった、と頷く。




久しぶりに向けられた、菜月の心から幸せそうな、優しい笑顔。
これを見ていると、不安も疑心も、全てが取り払われる。


菜月に愛されているのだと、ちゃんと感じることができる。



菜月の頭に手を回し、そっと胸に引き込む。
すっぽりと俺の胸に収まった菜月の小さな身体を、優しく包み込むように抱き締めた。







「好きだよ」


しっかりと、胸の中の温かい存在を体感しながら、そっと口に出す。



言葉にしてから、はっと気付く。

ここのところ、色々なことに心を支配されていて、菜月への気持ちを言葉にしていなかった。
菜月への想いを、純粋に見つめることができていなかった。





「私も。大好きだよ」


しっかりと、心を込めて言ってくれた菜月に、胸が締め付けられるように苦しくなって。
菜月を抱きしめる腕に力を込める。





菜月が大切に想ってる奴が誰なのかとか、あの札束の意味は何なのかとか、
挙げていったらきりがないほどに、疑問は溢れかえっていて、何度も何度も不安になるけど。




だけど俺は、純粋に菜月の愛を信じることができる。
俺も菜月も、幸せなんだって、心から思うことができる。だからそれでいい。


それが例え、一瞬だったとしても……。












非常にゆっくりとした目覚めだった。重い瞼が自然に開く。明かりを全て消した部屋に、月の光が眩しくて。

そっと、首を回す。触れあいそうなほど近くに、すーっと、僅かな寝息を立てる子供のような菜月がいた。



微笑んだ瞬間、目を細める。菜月の胸元に下がった、プレートが光った。
そこに何かが刻まれているのを見て、急に胸騒ぎがして。



そっと、決して菜月を起こさぬよう、顔をそこに近付け、目を凝らす。





瞬間、どくり、と大きく心臓が波打ち、呼吸が止まった。


苦しさに視線を逸らそうとして、それを抑えもう一度しっかりと見る。





シンプルなデザインのプレートに刻まれた、


1988.11.23 J.M

という文字を。












その日はいつもよりも更に寝起きが悪かった。
土曜の朝だということもあるし、起こしてくれる人もいない、ということもあるだろう。


洗面所に向かい、冷水で顔を洗う。



Tシャツがじっとりと冷えていた。
布団が厚いわけでもないのに、冬に寝汗をかくなんて、久しぶりのことのように思えた。


はっきりとは覚えていないが、何だか嫌な夢を見たような気もする。
だけど深くは考えないようにした。

嫌な夢の内容を思い出したら、再び嫌な思いを味わう羽目になるだけだ。





一昨日の夜見た、菜月がずっと付けているプレートに薄らと彫られた文字が、
拒んでも拒んでも脳裏に焼き付いて離れない。



菜月の誕生日は、一九八八年九月十日のはずだ。

間違えるはずもないのに、今はその記憶さえ疑いたくなる。しまいには、彼女の名前まで……。



馬鹿らしいとは、嫌というほど分かっているのに、そんな儚い希望ばかりを心に浮かべ、
それが崩されないようにするのだけで、俺には精一杯で。


昨日、結局菜月にこの話を持ち出すことはできなかった。



また朝から嫌な気持ちで頭の中をいっぱいにしてしまったことに後悔しつつ、
ラフな格好に着替えてから冷蔵庫を開ける。

最近特に菜月の部屋で朝食夕食を共に食べることが多かったから、冷蔵庫には見事に何も入っていない。

菜月がいなきゃ、朝食すら食べられないのか……と情けない気持ちでため息を吐きつつ、
部屋の鍵と財布を持って玄関に向かった。




スニーカーに足を突っ込み、ドアノブに手をかけようとして、その手を止める。
外から小さく、人の声が聞こえた。


耳を澄ます。そんなに低くはない男の声と、そんなに高くはない女の声。すぐ近くにいるのだろう。

短く息を吐き出し、俺はある程度の勢いをつけてドアを開ける。



ぱっと勢いよくそこにいた男女が顔を上げたのと、俺が菜月の部屋の方を見たのとが同時だった。





「智也……」


目を丸くして俺を見つめた春奈と、顰め面で俺を見た祐介の二人を凝視して、眉を顰める。



春奈は、スーツに黒いシャツ。祐介も、黒いスーツに黒いネクタイをしている。
きっと菜月を待って、一緒に法事にでも行くつもりだろうが、でも今日は菜月の親戚の法事で……。




「あれ、智也じゃん」


後ろから声をかけられ、俺は驚き振り返る。
同じくスーツに身を包んだ龍が、そこには立っていて。俺は、おう、とだけ答える。



あまりそこに長く立ち竦んでいるのも不自然な気がして、俺は本来の目的を果たすため、
部屋の鍵を閉めて廊下を歩き始めた。





「もうお袋も愛も向こう着いたって」

「菜月も、もう来ると思うけど」

「時間平気か?」

「あぁ。今出れば少し早めに着けると思う」



後ろの方で、龍と春奈達の会話が聞こえて。
先程立てた仮定が、確かなものであることを悟る。


だけど、何故菜月の親戚の法事に春奈や祐介が参加するのか。
幼なじみなのだから、菜月の親戚と彼らが親しくても不自然ではないけれど、何かが引っかかる気がする。




ぱっと、一度頭を振った。



疑いを持ったら、また見失ってしまう。

俺の気持ちを。幸せな菜月との時間を……。






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