ずっと隣で
01
風が、流れる。
騒がしい人混みの中で、私は一人そこに立ち尽くし、
壁全体とも言えるほどの莫大な規模に張り付けられた一人の男の横顔を見つめる。
甘いけど、どこか鋭さも持ち合わせた表情。
何処かを少し寂しそうに見つめるその瞳。風に吹かれた柔らかそうな茶色の髪。
「あ、圭がいるー」
はしゃいだ女の子の声に、私はゆっくりと顔だけで振り返った。
丁度同じくらいの年の、制服を着た女の子三人組が、私の背後を指さして楽しそうに笑っていた。
視線を戻す。
彼、緒方圭は今の若者に絶大な人気を誇り、その演技力は有名な映画評論家にも
絶大な評価を受けている、とも言われている若手俳優だ。
俯き加減の横顔の上には、今放送中の人気ドラマのタイトル。
道行く人々は、それをちらりと一瞥し、当然のことのように過ぎ去っていく。
目を、僅かに細めてそれを見上げた。
唐突に、雑踏の中に一つの音を見つける。
意識を集中させると、僅かにブレザーのポケットの中で、それが震えていることに気付いた。
引っ張り出す。今度は音が、はっきりと私の耳に届いた。
「もしもし」
取り出したそれを耳に当て、片耳を塞いで答える。
「黒崎ですが」
耳慣れた、落ち着いた低音に、若干笑みを浮かべる。
愛想がないかと問われれば、すぐにでも頷けるだろう。
「どうかしましたか?」
目の前の人物をもう一度一瞥してから、私は視線を逸らし歩みを進める。
「奴が高熱出して寝込んでるんだ。莉子と連絡を取れと、うるさくてね」
予想に決して反さない黒崎さんの、若干の呆れも混じった声に、苦笑した。
「今、どこですか?」
そう尋ねながら、駅の方へと向かう足を速める。
「台場の、インターコンチネンタルホテルだけど」
別に無理して来なくても、という気遣いの含まれた声に、笑いを返す。
彼が寝込んでいるというのだ。心配しないわけがない。
「一時間で行きますから」
黒崎さんの返事も聞かず、私は電話を切り、駅まで人混みを縫って走り出す。
もう三日、彼と会っていない。
風に靡くスカートも、乱れる髪も気にせず、私はただひたすらに走り続けた。
「お嬢様は時間に正確ですな」
少し長めに伸ばされた黒い前髪の隙間から、その黒い瞳が除く。
既に休憩モードに入り込んでいることを強調するかのように、彼のネクタイは解かれ垂れ下がり、
Yシャツのボタンは第二まで開けられていた。
手首に着けた高そうな腕時計をコンコン、と叩いた彼、黒崎さんは、私にその文字盤を見せる。
あの電話を貰ってから、丁度一時間が経とうとしていた。
「もちろん」
笑顔を浮かべて自信たっぷりに言った私に苦笑して、彼は一歩後退して私を部屋の中へ招き入れる。
若干の緊張を抱きつつも、その豪勢な部屋の中へ足を踏み入れる。
「悪いな、わざわざ来てもらって」
後ろから、黒崎さんの低音が追う。
「大丈夫ですよ。明日土曜日だし」
そう答えながら、歩みを進める。息をのんだ。
目の前に広がるレインボーブリッジ、輝く光の粒。室内に置いてある家具でさえ、輝いて見える。
「良い部屋だろ?」
足を止めた私の横に立ち、少々得意げに言った黒崎さんに、苦笑しつつも頷く。
ふと、テーブルに置かれたワイングラスと赤ワインが目に入った。
「また飲んでたんですか?」
笑みを浮かべながら尋ね、ソファに鞄を放って黒のブレザーを脱ぎ始める。
「ちょっとな」
ため息交じりに言った黒崎さんは、四人掛けのソファに豪快に腰を下ろす。
「主人が高熱出して寝込んでるっていうのに?」
上着をハンガーにかけ、クローゼットに仕舞う。苦笑が返ってきた。
「あいつ、そっちで寝てるから」
部屋の奥を顎で杓った彼に頷いて、私はベッドに向かってゆっくりと歩き始める。
「っていうか、なんでダブルベッドなんですか」
あまりにも豪華な造りの部屋を眺めまわし、笑い交じりに言う。
ここから見えている茶色い頭は、隣に誰かが来るのを待っているかのように、右端に寄っている。
「この部屋しか空いてなかったんだよ」
確か、前にテレビで特集していた。このホテルには更に上級のスウィートがある。
そこが万が一空いていれば、この人は間違いなくその部屋を選んだだろう。
「普通男二人にダブルベッドの部屋勧めます?」
冗談交じりに言った私に、黒崎さんが愚問、とでも言うように鼻で笑った。
「そいつに女装させてたから」
ソファに身体を埋めグラスを片手にした黒崎さんが、またも得意げな表情を見せる。
「またですか?」
笑い交じりにも眉を寄せた。
「だって、俺が男お姫様抱っこしてたらキモいだろうが」
思いっきり眉間に皺を寄せて言った黒崎さんに、笑顔を浮かべて確かに、と頷く。
前にも何度かあった。黒崎さんが、下らないことを理由にしてあいつを女装させたことが。
それでも、私はその本当の理由を知っている。
それが、黒崎さんがあいつを思ってこその行動だということも。
もぞり、と布の擦れ合う音がして、見つめていた掛け布団が僅かに動いた。
それに反応して、私は静かに奥の方へと足を進める。
寝顔が、僅かに掛け布団から覗いていた。柔らかい、明るい茶色の髪。すっと通った鼻筋。
溶けてしまいそうに愛らしい寝顔。
普段の仮面を脱ぎ捨てた、完全に無防備な彼、緒方圭が、そこにいた。
ぴくり、と眉間を動かした彼は、掛け布団の中から右手を出し、その長い指で瞼を擦る。
「起きた?」
床に座り込み、細く目を開いた圭の顔を、覗き込む。
「んー」
目を細めた圭は、幸せそうに笑みを浮かべて私を見た。
「大丈夫?」
求めるように右手を差し出してきた圭に、微笑みを浮かべながらも右手を差し出す。
その手を引っ張った圭は、それを自分の額に当てた。
思わず手を引っ込めてしまいそうなほどに熱い額に、目を丸くする。
「気持ちいい」
はにかんだ圭に、つられて笑みを浮かべる。
私の手の上に重ねられた圭の手でさえ、十分すぎるほど熱を持っている。
「お疲れ様」
溶けそうな表情をしている圭に、優しく声をかける。
「んー」
嬉しそうに答えた圭は、重ねていた私の手をきゅっと握る。
今日、今大人気のドラマがクランクアップを迎えた。
精神的にも肉体的にもかなり大変だった、と彼のマネージャーである黒崎さんからも聞かされている。
高熱を出すのも無理はない。
「どうだった?」
左手で頬杖をつき、ゆっくりと尋ねる。
ずっと楽しみにしていた、初めて主役を任せてもらったドラマ。
役どころは、難病と闘う青年だ。
共演者にはベテラン俳優も多く、撮影前からの圭の意気込みも半端なものではなかった。
「長かったなー」
私の手をぎゅっと握りしめたまま、圭は静かに瞳を閉じる。
「……でも、楽しかった」
たった一言に込められた圭の思いに、私は笑みを浮かべる。
彼は感受性が強い。きっと今回のドラマでも色々なことを思い、色々なことを学んだはず。
そうやって、どんどん大きくなっていく圭を傍で見つめていることが、私の幸せだ。
「しばらく休みだから、ずっと一緒にいられる」
私の手を放した圭は、ゆっくりと両手を私の方へ伸ばす。そっと、私の両頬に熱い手が触れた。
「うん」
頷いて、笑みを浮かべる。
私の両頬を挟んだ圭の手が、ゆっくりと私の顔を引き寄せる。圭との距離が、どんどん縮んでいく。
僅かに圭が頭を浮かせて、私は誘われるままにそっと瞳を閉じる。
ゆっくりと、いつもよりも何倍も熱い唇が、唇に触れた。啄ばむように、圭の唇が動く。
僅かな圭の発するものに気づいて、私は圭の頬を小さくぱちん、と音を鳴らして叩いた。
渋々、という風に圭が唇を離し、その唇を尖らせる。
「けち」
呟いて恨みがましそうに私を見た圭は、瞬間笑みを浮かべる。
その表情がおかしくて、私もつられて笑った。
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