言葉にできない
     I love you
04


都会ならではの、生暖かい包み込むような、でもどこか冷たさを感じさせる空気に、私は吐き気を堪える。


今日は何杯も飲んでいない。
ただでさえ、ビールをジョッキで五杯いっても酔わないほど酒には強いのに。

今日はあいつに会ってしまったから、酒の回りが早いのだろうか。





「怜っ!」


少し足早にヒールを鳴らし歩いていた私は、
聞き覚えのある声にぎょっとして立ち止まる。


振り返らずにただ固まっていた私の横に、隼斗が滑り込むように並んだ。
相当走ってきたのか、息が荒く吐き出される。



「送るよ。俺、あんま飲んでないし」


斜め前に見えるPマークを指差し、言う。

正直私は、鈍感でも無神経でもないから、さっきのことがあった後で、
普通に送ってもらう気になんてなれない。



「いいよ、近いから」


駅が、ということをあえて言わずに、素っ気なく答える。
こうすることでしか、私は自分を守れそうになかった。



「いいから、送らせて」


頼み込むように、少し強引に言った隼斗は、右手を私の腕の方へと伸ばす。
と、その手は宙で戸惑ったように止まった。顔を上げ、彼の顔を見る。

眉を寄せて困ったように笑った隼斗は、もう一度押すように、な、と私に言った。
その表情にどうすることもできなくて、仕方なしに頷く。

彼は、私が最後には頷いてしまう事を知っている。そう、思えた。





「車、買ったんだ」


駐車場に入り、真っ直ぐに彼が向かった黒い新しい車を見て、言う。



「うん。ずっと中古のちっこい軽だったんだけど、誕生日ん時に親が買ってくれたんだ」


話しながら、彼は助手席側に回って、私の前で丁寧に扉を開けてくれた。
ありがと、と小さく呟き、車の中に入る。

ほんのりと、バーバリーの香水の匂いが漂った。だけどそれはすぐに、
証拠を隠すかのように新車特有の匂いへと変わる。



「いい車ね」


彼らしい、少しシャープな車だ。シートも高そうで。
隼斗は一人っ子だったから、昔から色んな物を親に買ってもらってたな、と思い出す。





「今、一人暮らしなんだろ?」

少し遅れて運転席に乗り込んだ隼斗は、暗がりの中でこっちを向いた。



「うん、大学の近くのとこ」


そう言った私に、隼斗は車を出す。運転を始めた真剣な彼の横顔を、見つめる。


もう、四年前のあの頃とは違う。
何も変わらないはずなのに、こんなにも大きな何かがある。






「……さっきは、悪かった」


その横顔をじっと見つめていた私は、少し顔をこちらに向けて言った隼斗に、
少し目を見開く。



「俺が変なこと言ったからだろ。急に帰るなんて言ったの」


その落ち着いた、申し訳なさそうな声色に、心拍数が上がっていく。



「別に、そうじゃない」


少し強い口調で言った私に、心の中で叱咤する。
こんな風な態度を取るつもりなんて、更々ないのに。

本当は、今すぐにでも素直になりたい。あの時のことを、謝りたい。



大学の最寄りの駅を通り越す。どこ? と目で尋ねた隼斗に、
そこの角曲がって、と指差して言った。





「また、会える?」


道路を間違えないように見回していた私は、驚いて隼斗の方に振り返る。
ちらり、と彼はハンドルを握ったまま私を見る。

その瞳の真剣さに、出かかっていた言葉を飲み込んだ。





「……彼女、いるんでしょ」


自分の声が切なさを帯びたのを、感じた。

微かだけど、一瞬だけど香ったあの匂い。きっと、可愛らしい女の子。
顔のいい隼斗に近付いてくるたくさんの女の中の、ただ一人の特別な女の子。




「いないよ」


さっきと変わらず、何の迷いも見せずに言った隼斗。
嘘をつくときの、必ず首の後ろを一度触る癖も、出ない。

思い直す。あれから四年だ。癖なんて、誰かに指摘されたりして、
変わってるに決まってる。



「嘘つき」


小さく、吐き捨てるように呟いた。むっとした空気が伝わってきて、
反抗の言葉が吐き出される前に、私はそこ、と角のマンションを指差した。

車が大きく横に振れ、やがて止まる。





「送ってくれて、ありがと」

後腐れない口調で言った私は、隼斗の方を一度も見ずに車のドアに手をかける。



「明日」


突然聞こえた強い声に、私はドアを押そうとしていたその手を、止める。



「青葉広場に十時」


振り返ることなんかできなかった。今、隼斗の顔を見たら、
私は決意を鈍らせることになる。もう二度と会わない、という決意を。

無言でドアを押し、足を一歩踏み出す。



「待ってるから」


私の背中を追うように聞こえた声から逃げるように、
私は振り返らずに外に出て、車のドアを勢いよく閉めた。












ふわふわの布に飛び込み、それに包まれる。
まだ半乾きの髪が、頬にかかって冷たかった。



『明日、青葉広場に十時』


蘇ってくる、強い意志のある真剣な声。

あいつは、きっと待ってる。いつまででも。私が行かないことを知っていて。



明日は、二週間ぶりの冬矢とのデート。
分かってはいるのに、抗いきれない感情が胸の中を支配する。


目を閉じる。思考よりも先に、睡魔が私を襲った。












鏡の前で、もう一度メイクを確認する。私に出来る、精一杯のオシャレ。
普段着ない黒いフリルのスカートも、昨日の夜箪笥の奥から引っ張り出してきた。



「お姉ちゃん」


大袈裟なほどに、肩を飛び上がらせる。

部屋に篭って勉強していたはずの亜季が、階段から興味深そうに私を見ているのが、鏡を通して見えた。



「どっか行くの? デート?」


楽しそうに足を弾ませて、亜季が階段を下りてくる。
あえて何も言わず、苦笑で返した。言えるはずがなかった。



「じゃあ、行って来るね」


バッグを肩にかけ、パンプスを履いて振り返る。
亜季は、嬉しそうに顔をにやけさせながら手を振った。手を振り返し、玄関を出る。



携帯をバッグの中から取り出し、時間を確認する。
と、新着メールがあるのに気付き、それを開く。



「ごめん、今日やっぱり無理になった」


あっさりとした文章に、弾んでいた心が一気に崩れていく。
ふう、とため息を一つ吐き出した。

後一時間もすれば、約束してたプラネタリウムも始まる。





七夕の日、そこのプラネタリウムを見た二人は必ず結ばれる。
そんな迷信がある、と言ったのは隼斗の方だ。私は何も興味がなかった。

だけどそれでも、こんな状況に立たされた、不幸で危うい、
今にも崩れ去ってしまいそうな関係だったから。

どうしてもそれに、縋りたくなったんだ。





虚しいことだと思いつつも、足を進める。

ゆっくり歩いていたせいか、乗るはずだった電車を乗り過ごし、それを待っていたらうたた寝でも
してしまったのか、その次の電車も乗り過ごしてしまった。仕方なく、予定よりも三本遅い電車に乗り込む。

少し急ぎ足に真っ直ぐ行けば丁度くらいの時間帯。
ある意味良かったのかもな、と無駄な慰めを自分に向けた。





会場に着くと、やっぱり予想通りそこはカップルでごった返してて。

ため息をつきながらもチケットを買おうと受付に向かおうとした瞬間、
腕に鈍い痛みが奔り、強く後ろに引っ張られた。
よろめいて、驚いた顔のまま後ろを振り返る。



「隼斗……」


目を丸くして、息を切らせる彼を見つめる。
苦しそうな表情のまま目を細めて笑った隼斗の額を、汗が伝った。



「無理になったって、言ってたじゃん」

少し咎めるように言った私に、へへっと隼斗は得意げに笑う。



「約束は約束、だろ?」


彼は、私の心の中の微かな望みを叶えるために、走ってきてくれた。
私はそんな彼を信じていたから、今ここにいる。



「ばか」

小さく呟いた私の頭を、大きな笑みを浮かべて隼斗が撫でた。












はっと息を吸い込んだ。肺に急激に酸素が入り込み、胸が痛む。

うつ伏せでベッドに寝転がったまま、一体何時間を過ごしていたんだろう。
濃かったはずの辺りの闇は、若干薄くなっていた。


身体をベッドの上に起こし、両手で顔を覆う。

瞑った瞼の裏には、はっきりと四年前の隼斗の笑顔が浮かんでいた。






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