言葉にできない
     I love you
05


紺色のジーンズとターコイズブルーのオフショルダーニットを前に、私は深いため息をつく。

冬矢の前に出て行くには、あまりにカジュアルすぎる格好。額に手を当てる。
冷たい掌にも関わらず、額は一向に冷やされない。





もうすぐ九時半。皮肉にも、冬矢と指定した時間は十時。
隼斗に強引に告げられたあの時間と、同じだ。

どちらにしろ、もう間に合わないだろう。いっそ体調が悪い事にしてしまおうか。


二週間ぶりに会うというのに、余計な事ばかり考えて頭を抱えている自分が、
情けなくなる。だけどその手は、自分の理性を無視して携帯を掴み取っていた。





「どうした?」

三回コールの後、優しげな冬矢の声が聞こえてくる。胸が、罪悪感に軋んだ。



「今日、体調悪くて行けなくなっちゃった」


最悪の状況を考えた上での言い訳にしようと思っていたのに、あっさりと私の口から
零れ出した言葉に、自ら嫌気が差す。私は、何がしたいんだろう。



「大丈夫なのか? なんか買ってこうか?」


気遣いの言葉に、私はううん、大丈夫、と首を左右に振った。
まさか仮病だなんて白状できるほど、私は馬鹿な女じゃない。



「本当、ごめんね」


申し訳なさそうな声色を出した私に、冬矢は仕方ないよ、と寛大に言う。
数回言葉を交わして、電話を切った。浅く長いため息を吐き出す。

ベッドに広げたままの洋服をちらり、と見て、私は再度ため息をついた。











見つめ続けていた時計の針が、丁度十時を指す。洋服にも着替えて、
もう仕度は充分なほどにできているのに、さっきから私は玄関に向かって、
一歩進んで二歩下がる、を繰り返すような状態だ。

自分でも、不思議に思う。昨日は、どんなにあいつを待たせていようと、
断固として理性を貫き通すつもりだったのに。



『約束は約束、だろ?』


笑みを浮かべた隼斗の顔が、嫌というほどすぐに浮かんでは消える。




隼斗は、私の望む事をしてくれた。

デートのコースは私に必ず決めさせてくれたし、私との約束を破棄する事も、
よっぽどのことがない限り、なかった。誰にも言わないで、と言った私の言葉どおり、
彼は私と付き合っていることを決して他言しなかった。



それを崩してしまったのは、私の方。
いつもいつも、傷つけてばかりなのも、私の方。

ずっと一緒にいたい、と願った隼斗を裏切ってしまったのも、私の方。





バッグを手に取り、それに携帯を投げ込んで、足早にリビングを通り抜ける。
パンプスに足を詰め込み、重い鉄の扉を押して外に出た。

鍵を鍵穴に勢いよく差し込み、強引に回す。
そして鍵をバッグに押し込み、早足で部屋を後にした。












駅前の青葉広場は、いつもと同じように人で溢れ返っていた。
広めのその空間を見回し、一つの街灯を見つける。

昔、隼斗と待ち合わせに使っていたこの場所。きっと彼は、
いつもと同じように、あの街灯の下でポケットに手をつっこんで立っているはず。



足を進める。人々の間から、見慣れた背格好の黒髪の男を見つけた。
かつり、とパンプスを鳴らしながら、徐々にそこに近付いていく。


人の気配を感じてか、隼斗が顔を微かに上げた。一度、その場に立ち止まる。
驚いて顔をしっかりと上げた隼斗は、急いで駆けつけてくる。





「ごめん、遅れて」


微かに笑みを浮かべて、驚いて言葉の出ないままの隼斗に謝る。

このごめん、が別の意味で伝わったなら良かったのに。
そう心底願ったけど、それが無駄なことだと知っていた。



「来ると思わなかった」


苦笑して言った隼斗は、首の後ろに手を当てた。苦笑する。
彼は知っていたはずだ。私の心の底に眠る気持ちを。



「約束は約束、でしょ」


茶化すように言った私に、隼斗は少し照れたように笑った。
その笑顔に、過去の記憶が幾つも音を立てた。



「どこ行くか」


「あんたが誘ったんでしょ」


無意識のうちに、隼斗の名前を避けた自分を、心の中で責め立てる。

何か計画があったわけじゃなくて、ただ一緒にいたかった。
そんな曖昧な感情を、私は知ってる。



「怜、どこ行きたい?」

笑みを浮かべて爽やかに尋ねた隼斗に、私は唇の両端を吊り上げた。












「それにしても、色気ねえな」

ははっと大層愉快そうな隼斗の笑い声が、雑踏に紛れた。



「昔からでしょ」


笑みを浮かべて、隼斗を見上げる。目の前には、大きな観覧車と、
様々なアトラクション。そこから時折、どこか楽しそうな人々の叫びが聞こえてきた。



「ま、怜らしくていいけど」

軽く言った隼斗は、先を歩き始める。





四年前、私たちが高校生だった頃も、数少ないデートで一度ここに来た事があった。

だからじゃない。ただ、今更カップルらしいことをするのも変だったし、
取り繕うような"大人"は何となく嫌だったから。

肩身の狭い中でも、自然体で過ごしていたあの頃のように、
今もお互い、自然体で接していたい。


あんな辛い事があった後で、今更元に戻れるなんて甘い考え、持ってないけど。












「ほい、キャラメルチョコバナナ」


横文字を片言で言った隼斗の声は、叫びすぎたせいか少し掠れていた。
笑みを浮かべながら、それを受け取り、齧り付く。



「美味い?」


自分のを頬張った後で、唇の端にチョコレートを付けた隼斗が、
嬉しそうに尋ねる。私は、満面の笑みを浮かべて頷いた。

隼斗が突然、身を屈める。あっという間に私の前にできた影は、
クレープに齧り付いて、去っていった。



「んー、美味い」

満足そうに口を動かしながら言った隼斗に、笑いを零す。



「一口十円です」


掌を隼斗の前に差し出し、優越を含んだ声で言う。
隼斗は玩具を取り上げられた上に叱られた子供のように、唇を突き出した。



「やーだよっ」


拗ねたように言った隼斗は、私の差し出した掌を、自分の掌で叩く。
声を上げて、笑った。隼斗もつられてげらげらと笑い出す。





「なんか、昔思い出すな」

まだ笑いを完全に収めきらないまま、隼斗は私に言う。



「そうだね」

私も素直に言って、笑った。



四年前のあの頃も、私たちはこんな馬鹿ばっかりやって、
笑いながら過ごしてた。そうでもしなきゃ、やっていけなかった。
少なくとも、私は。





だけど私のギブアップ、の一言で、この幸せな世界は、
一瞬に崩れて消え去ってしまったんだ。






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