言葉にできない
     I love you
07


金属と陶器がぶつかり合い、音を立てる。
人がいるとはとても思わせないほど、照明を少し落とした店内は静かだった。





「悪いな、忙しなくて」


向かいに座る冬矢が、申し訳なさそうに言う。
手を止め、ううん、と首を左右に振った。

今日は金曜日で、冬矢の仕事が終わった後、私を家の前で落ち合って、
そのままこのフレンチレストランに来た。



全ては私のせいだ。この間、嘘をついて約束を断ってしまったから。
だから冬矢は、私と会うための時間を無理やり作ってくれた。

違う。私が作らせたんだ。





「今日、泊まってくだろ?」


さらり、と言った冬矢に若干頬を赤らめる。
それでも、この薄暗い店内じゃ窺えないほど微かに、だけど。



「いいの?」


遠慮がちに、冬矢を見る。微笑みを返した冬矢に、胸がじんと熱くなった。



私はこの笑顔を、裏切ろうとしたんだ。
二年間で積み上げてきたものを、この愛を、たった一度の再会で、全て壊そうとした。


間違ってる。あの時だって、そう分かっていたのに。





「もう大丈夫なのか? 体調悪いって言ってたの」


あの日からの約一週間で、もう三度目のその質問。冬矢は心配性だ。
前に私が風邪をひいて高熱を出した時も、お粥を作りにわざわざ家に来てくれた。



「もう大丈夫だって。心配しすぎ」


罪悪感で軋んだ胸の痛みを隠すように、笑いながら言う。
ほっとしたような冬矢の顔に、更に胸が痛んだ。





「美味いか?」


目の前の金目鯛のソテーに目を移す。美味しくないわけがない。
冬矢が予約してくれた、ずっと来てみたかった高級レストランの料理なんだから。



「美味しい」


笑顔を添えて、言う。冬矢も嬉しそうに笑みを返した。
落ち着いた雰囲気の冬矢にはぴったりの、大人な店。
私も今日はそれに合わせてシックな格好で来た。



「また、来ような」


笑顔で言った冬矢に、頷く。そうそう来れるような店じゃない。
それを分かってて言う冬矢は、長い将来を見越している。これから先、
何年もある。だからまた、と言えるんだ。



私はそれを、裏切ることなんてできない。
この笑顔を、壊すことなんてできない。できるはずがない。












濡れた髪をある程度拭いて、洗面所を後にする。
冬矢とお揃いで買って、この部屋に置いたままの黒のパジャマ。

モノトーンなこの部屋と似た雰囲気で。私の部屋には、どう考えても合わないもの。



「冬矢、入っていいよ」


リビングの二人掛けソファに座っていた冬矢に、声をかける。
上げられた冬矢の顔には、まだ眠気が漂っていた。



「大丈夫?」


傍に寄って行って、尋ねる。立ち上がった冬矢を見上げた。
疲れきっている表情。あぁ、と頷いた冬矢は弱弱しい笑みを浮かべた。



「お風呂で寝ないでよ?」


おどけて言った私に、冬矢が苦笑を漏らす。
あながち見当外れな冗談でもなさそうだ。



洗面所に向かう、まだスーツ姿の背中を見つめる。
その背中に飛びつきたい衝動だって、今の私には溢れるほどあって。


それなのに、何でまたあの笑顔を思い出すんだろう。












「怜」


低く私を呼ぶ声に、脳が音を立てて動き出す。肩を揺すられ、瞼を開ける。
目の前に、冬矢の顔があった。


いつの間にか、ソファに座ったままうたた寝をしていたらしい。
私と同じパジャマを着た冬矢の黒い髪は、まだ水分を含んで、時折雫を零していた。



「大丈夫か?」


微笑みを浮かべながら尋ねた冬矢に、苦笑する。最近、うたた寝することが多い。
いつの間にか眠っていて、気付いたら朝だったり。

そのせいでこの一週間で二度も、冬矢を起すことができなかった。
何だかんだ、私も疲れてるんだ。





「コーヒー淹れたから、飲もうぜ」


優しく言った冬矢に頷き、ソファの前に腰を下ろす。
程よく温かいそれは、身体の隅々に行き渡って、私を包み込んだ。



「ごめんね、なんか」

マグカップを両手で持ったまま、呟く。いいさ、と冬矢は軽く笑った。





「冬矢も疲れてるんじゃない?」

問わなくても、分かる。その背中にははっきりと疲労が浮かんでるから。



「ま、残業続きだからな」

苦笑して、首の後ろに手を当てる。その仕草に、ちくり、とまた胸が痛んだ。





「でも、怜といると元気出るから」


顔を向けずに私を見た冬矢に、笑みを浮かべる。


その端整な横顔を見つめる。切れ長だけどどこか温かい目、
すっと通った鼻筋。女なら、手に入れたいと思ってもおかしくないほどの
抜群のプロポーション。私は、そんな冬矢に愛されるに値しない女。

だけどそれでも、私は……。





「隈、出来てる」


冬矢の顔に手を伸ばし、そっとその下瞼に触れる。
親指の腹で、黒ずんだそれを撫でた。その瞬間、ぐっと手首を掴まれ、
勢いよく引き寄せられる。



驚くより前に、私の唇は深くその唇に塞がれていた。
温かい舌が、口内に滑り込んでくる。

熱く激しく私の舌を絡めるその行為に、
自分がどんどん夢中になっていくのを感じた。


冬矢の大きな手が後頭部に滑り込み、その長い指が髪と髪の間を掴むように這う。
その仕草に、私は思わず身を捩った。

パジャマの裾から、少しだけ冷たい冬矢の手が潜り込んでくる。





確実に、と言っていいほど確かな予感を感じた。甘い時間が、始まる予感。
なのに冬矢に触れられる度、胸の痛みはどんどん増していくばかりだった。












黒いベッドの上で、目を覚ます。大きな窓から差し込んでくる日の光に、
目を細めた。いつものように、私の首にしっかりと腕を回した冬矢。

その寝顔を見つめて、笑みを浮かべる。規則的に、寝息が漏れる。



そっと、首の上に圧し掛かる腕に手をかけ、持ち上げて首を引き抜く。
冬矢は寝起きが悪いから、こんなことじゃ起きない。

温かいベッドから抜け出た私は、ベッドの横に落ちている服を拾って、
身に着けていく。





台所に向かう。冷蔵庫の重厚な扉を開けた。
その冷気が眠気を吹き飛ばす。

冷蔵庫の中は相変わらず、冬矢らしく整理されていて、色んな食材が揃っていた。


卵と野菜類を取り出し、扉を閉めて奥へと入った。
野菜を洗って、包丁で食べやすい大きさに切っていく。





「怜」

突然聞こえた声に、肩を震わせ、手の動きと同時に息も止めた。



「おはよ。早かったね」

振り返って、笑顔を浮かべる。それが引き攣ったのを、冬矢も見たはずだった。



「物音、聞こえたから」

冷蔵庫を指さして、冬矢が言う。その髪には、珍しく少しだけ寝癖がついていた。



「起こしちゃった?」

肩を竦めて言った私に、いや、と冬矢は笑う。





「大丈夫か?」


私の手元に視線を移した冬矢は、若干遠慮がちに尋ねた。うん、と小さく頷く。





あの後、何年も包丁が握れなくなった。
だけどそれでも、自炊は必須。そのために必死で練習した。

だから今は恐怖を抱きながらも、使いこなせる。



それはずっと傍で見ていてくれた、冬矢のおかげだ。

冬矢が決して焦らずに、私を見守っていてくれたから。
誰よりも応援してくれて、私を支え続けてくれたから。







私一人で抱え続けるには、大きすぎるほどの深い過去の傷。
忘れたことは、一度もない。


だけどその傷が癒えたのも、あいつと再会してもこうして平静を
保っていられるのも、全部全部、冬矢のおかげなんだ。






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