言葉にできない
     I love you
08


床が僅かに縦に揺れ、完全にそれを止める。

ゆっくりと空間を押し開けたその扉の間を、完全に開くより前にすり抜けた。
肩にかけていた鞄に手をかけ、顔を下げないまま鍵を探り出す。

瞬間、手を止めた。私の部屋の前、目の前にあるその影に、呼吸さえも止まった。





「何で……」


考えるよりも先に、言葉は出ていて。黙って私の部屋の扉を見つめていた隼斗が、
顔を上げてこっちを向く。



「怜」


柔らかく目を細めた隼斗の表情に、一瞬にして心が溶かされたのが分かった。
不謹慎すぎる。私は冬矢のところから、朝帰りして来たっていうのに。



「何で、ここに?」


一歩歩み寄り、遠慮がちに尋ねる。少し困ったように笑った隼斗に、
その全てを知った。



「顔、見たくなってさ」


優しく言った隼斗に、胸が高鳴る。
またな、と隼斗は言った。隼斗は絶対に、約束を破ったりなんかしない。




「……入る?」

小さく言った私に、隼斗は笑みを浮かべて頷いた。


まだこの身体には、冬矢の感覚が残っていて。
一瞬、ドアノブにかけた手を止めかける。それでもそれを押して、
私は部屋を開けた。後ろから、物音が追ってくる。

扉が背後で閉まった瞬間、心がまた音を立てた。





「初めて入るな、怜の部屋」


嬉しそうに言った隼斗は、部屋をぐるりと見回す。

四年前の私のほんの一部しか知らない隼斗。
今まで、頑固に立ち入らせなかったのは私。知られるのが怖かった。

知られたら、タイムオーバーだと、そう思ってた。



「コーヒーでいい?」

台所に向かいかけてた私の背中を、怜、と低い声が追う。



「いいよ。それより、これからデートしねえ?」


振り返った私に、隼斗はまた笑みを見せる。
デート、そんな響きにどこか、胸の痛みを感じた。



「海、行きたくね?」

肯定されることを既に知っている問いと共に、隼斗はその白い歯を覗かせる。



「何なのよ、もう」


拗ねた口調で言った私は、それでも笑みを零す。
結局いつも、こうやって隼斗の笑顔に流されてしまう。



本当は、気付いてるはずだ。私が今日、いや昨日、どこに行っていたのか。
どうしてこんなオシャレをしているのか。誰と何をして過ごしてきたのか。

分かってるはずなのに、隼斗は笑顔しか見せない。


それは、自分の方にやましい事があるからなの? それとも……。












「久々だな、ここ来たの」


車から地面に、足をつける。風と共に潮の匂いが運ばれてきた。


この砂浜に来るのは、四年ぶりのことだ。
あの頃、プリクラや写真など、後に残るものは何も作れなくて、
学校行事さえ一緒に過ごせなかった。

そんな環境の中、私たちはよくこの海に、遊びに来てた。



「懐かしいね」

あの頃と何も変わらない笑顔を見せた隼斗の横顔を見つめて、言う。





「勝負しねえ?」

突然、はじけた表情で言った隼斗に、目を丸くする。



「負けた方が勝った方の願い一個叶える、っつーやつ」


懐かしいその台詞に、微笑んで頷く。昔もよく、こんなことをやってた。
アイスが食べたい、とか、映画が見たい、とか。大した事ない内容だったけど。

それでも何かを賭けた勝負は、どんな時だって楽しかったのを覚えてる。



「行こうぜ」


笑顔で言った隼斗の背中を追って、私も砂浜の上を歩き出す。
波打ち際より少し遠いところに、隼斗が靴を脱ぎ捨てた。
私も、パンプスをそこに放る。



「濡れないでより遠くまで行けた方が勝ちな」


再確認するように言った隼斗に、頷く。波が引き始めた瞬間走り出し、より遠くに足跡を付け、
波が押し寄せ始めた瞬間に後戻りする。簡単なことのようで意外と難しい
この遊びは、寒くなり始めた海でよくやった定番だ。


爽やかで鮮やかな音が響き、それに合わせて足を進めていく。
久しぶりの湿った砂の感触に、微かに笑みを浮かべた。

この四年間、忘れてたこと。こんなところに、たくさん溢れかえっていたんだ。



得意げに足を伸ばした隼斗は、私より足一つ遠いところに足跡をつけ、戻ってくる。
へへっと笑った隼斗は、昔と何も変わってなかった。
今も変わらず、あの頃の幼さを残している。





もしこの勝負に私が勝ったら、今の私の願いは、何なんだろう。
ずっと告げようと思っていた事が、脳裏を掠める。


もう会いに来ないで、なんて、本当に私は隼斗を前にして言えるんだろうか。



本当は分かってる。私は自分自身が、どこかで期待していることも。
もうこれ以上一緒にはいられないってことも。

だってとっくに、タイムオーバーしてるんだから。






「……聞かないの」


張り切る隼斗の横顔に、少し冷めた声で問いかける。
驚いたように振り返った隼斗の表情に、あの日の記憶が音を立てた。



「私が今日……昨日、どこに行ってたのか」





再会して、それから何時間も時を重ねてきた。その間で、嫌でも分かったことはある。


私も隼斗も、同じ気持ちを抱いている。あの頃に、辛かったけど幸せだった、
あの日に時を戻したい、と。四年経った今でも、そう強く私たちは願い続けてきた。


それでも私たちには、今でもまだ壁が多すぎた。



「怜、俺は……」


少し俯き加減で口を開いた隼斗の声に、波の音が覆いかぶさる。

じわり、と足元に冷たさを感じた。次第に、刺すようにその波の温度が素足に
伝わってきて。それでも、それを気にすることはなかった。隼斗の顔を、見つめる。





「俺の、勝ちだな」


白い歯を、覗かせる。視線を僅かに下に巡らせると、
隼斗の足も同様波に浸されていた。


隼斗が、一歩踏み出す。ぱしゃり、と軽い音が耳に飛び込んだ。
数回それが繰り返されて。足元を見つめていた私は、顔を上げる。

目の前にある隼斗の顔は、太陽に重なって少し眩しかった。




肩に、重みを感じて。私の両肩に手を置いた隼斗は、そのままゆっくりと
身体を屈めた。

少しずつ、その顔が近付いてきて。吐息を感じたと思った瞬間、唇に僅かな、
だけど温かな感触を感じた。一瞬触れ合ったそれは、ゆっくりと離れていく。


顔一つ分離した隼斗は、真剣な表情で私を強く射抜くように見つめた。




「今は、聞きたくない」


低く掠れた声に、波の音が重なる。また、冷たさを感じた。
だけどそれはさっきより、もっと冷たく感じた。



「隼斗……」


思わず彼の名前を呟いた私の声が、掠れる。隼斗は照れたように、
八重歯を出した。



「やっと、名前呼んでくれた」


はにかみながら言った隼斗に、どくり、と心臓が波打つ。避け続けていた、名前。
名前を呼んだら、完全に戻ってしまうと思った。

ずっと夢に見続けていた、あの頃に。





「怜……」


掠れた声が、私を呼んだ。熱く潤んだ瞳が、私を捉える。


身体の中から、溶かされていくみたいだった。

さっきよりも早い速度で隼斗の顔が近付き、強く、唇を押し付けられる。


温かかった。久しぶりの、隼斗の匂い、隼斗の体温、隼斗の感触。
その全てが、胸に痛かった。

唇が、ようやく離れる。それを感じた瞬間、すっと胸を冷たい風が吹きぬけた。




「願い、二回も叶えてもらっちまったな」


照れたように俯きがちに言った隼斗に、笑いを漏らす。





私が勝ってたら、私は永遠の別れを告げるつもりだった。
例えそれが、できなかったとしても。


なのになんで、隼斗はこうして私の心をさらっていこうとするの?






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