言葉にできない
     I love you
10


「何食べたい?」


深くキャップを被った彼に、尋ねる。
ファッションなのだろうが、彼の表情が見えない事がただ一つの気掛かりだった。



「んー、肉じゃが」


野菜コーナーの前、じゃがいもを何気ない風に手に取った隼斗はそう言って、
私を見てにかり、と笑みを浮かべる。



「定番ね」

さらり、と流した私に、隼斗は唇を尖らせた。



「怜は何が得意なわけ?」

じゃがいもを元の位置に戻し、隼斗はカーゴパンツのポケットに手を突っ込む。



「……カレー」

「定番だな」


即座に返って来た指摘めいた突っ込みに、私は眉を顰めた。
きっとこの突込みをしたかっただけだろう。



「んじゃ、間取ってオムライスっつーのはどう?」

「どこが間なのよ」


二つの共通点はじゃがいものはずだ。隼斗が笑い声をあげる。
私もつられて笑みを浮かべた。












まるで焦らすようにゆっくりと開けられていく灰色を見つめる。
それが壁に完全に収められたのを見送って、私はその小さな箱から抜け出た。

買った物を詰め込んだ白い袋をかけた腕をポケットに突っ込んだ隼斗も、
私の後を追うようにそこを出る。



角を曲がった瞬間、足を止めた。心臓が一度大きく飛び跳ね、
鼓動がどんどん早まっていく。

後ろから来た隼斗は、立ち止まった私の肩に、気付かずぶつかって。
キャップで隠された顔を、私の方に向ける。





「どした?」


平然と私に声をかけた隼斗の声に、私の視線の真っ直ぐその先にいた影が、
顔を上げる。瞬間、その顔が引き攣った。


少しも自分の方に動かない私の視線に眉を顰め、隼斗も私の視線の先に
顔を向ける。あ、と小さく呟いた隼斗の声に、胸が焼き付くように痛んだ。





「誰だよ、そいつ」


呆気に取られたような、少し弱弱しい口調で言った冬矢に、
私は目を微かに伏せる。

いつかは来る日だと、覚悟はしていた。一度大きく息を吸い、それを吐き出す。


鞄に手を突っ込み、そこから小さな鉄の塊を引っ張り出す。



「先、中入ってて」

冷たい機械的な声で言った私は、それを握り締めた手を隼斗の前に出す。



「え、でも……」

「いいから」


戸惑ったように、キャップの奥で視線を泳がせた隼斗に、
言いつけるように鋭く言い放つ。ゆっくりと躊躇いがちに見せた掌に、
部屋の鍵を落とした。


黙ってそれを握った隼斗は、一度私の目を強く見つめて、
冬矢のいる方へと歩き出す。



唖然と私たちを見つめていた冬矢は俯いて、隣を通り過ぎた隼斗を
見ようとはしなかった。





音を立てて扉を開けた隼斗の姿が、そこに吸い込まれていくのを見つめる。
扉が閉まった音を聞いて、冬矢はようやく若干顔を上げて、私を見る。



「どういうことだよ……」


呟くように漏らした冬矢は、前髪をかき上げて首を折り、
後頭部でそれを握り締める。答えは、求めていなかった。



私の出した答えは、さっきの行動で、
冬矢に充分すぎるほど伝わっているはずだった。



「……ごめん」

小さく呟いた私の声は、無言で冬矢から弾き飛ばされ、二人の間で彷徨っていた。





「……あいつが、お前の腕の怪我の原因作った奴なんだろ?」


遠慮がちに尋ねた冬矢は、若干顔を俯けたまま私を上目で見る。
眉を最大限に顰めた。



「何で……」


ずっとずっと、私を見守っていてくれた冬矢は、当然のようにあの日私を襲った
悪夢を知っていて。

写真なんて、一度しか撮った事がなくて。それは私の手元から、
いとも簡単に消え去ってしまった。

だから私には、冬矢に隼斗の顔を教える術はない。



「顔に書いてある」


優しい笑みを浮かべた冬矢に、胸が急激に苦しくなる。




私はたった一瞬で、冬矢を、冬矢がくれた全ての時間を、愛を、
裏切ったんだ。それなのにまだ彼は、私に笑顔を向けてくれる。

本当は、顔も見たくないほどなはずなのに。



私は結局、同じことを繰り返すばかり。



「やっと、会えたんだな」


柔らかく言った冬矢の一言に、ずっと堪えていた何かが胸の奥で弾けて。
決壊したように、涙が一気に溢れ出す。





今までずっと、冬矢は私を支えてくれてた。
私の過去の傷を知り、一緒に苦しみ、一緒に努力を重ねてくれた。


震えていた包丁を持つ手を、いつも一緒に握っていてくれたのは、
冬矢以外の、他の誰でもなかった。



だけど冬矢は、ずっと知っていたんだ。隼斗と再会した時、
私がどんな決断を下すか。私の心の底に、誰の存在があったのか。





「別れよ、俺たち」


冷たく、だけど温かい言葉を冬矢が笑みを浮かべて言う。
止まることを知らない涙を手の甲で無意味に拭う。



「でも、冬矢は……」


無意味な言葉だと思った。今の冬矢はきっと何を言ったって、
決意を揺るがすことはない。





「俺は、大丈夫だから」


思った通りの言葉と笑顔に、涙は更に溢れ出してきて。

冬矢がずっと私の傍にいてくれたのは、同情でも何でもない。
そんなこと、痛いほど分かってるのに。





「あいつと再会したこと、後悔だけはすんなよ」


優しさを持って、だけど真剣な表情を作った冬矢を、歪んだ世界の中で見つめる。
小さく頷いたと同時に、また涙が零れた。


柔らかな笑みを浮かべた冬矢は、私の方に向かって歩いてくる。
目の前で立ち止まった冬矢は、いつもと変わらない表情で、私の頬にそっと触れる。

いつもと同じ、その温かい温もりに、苦しくなった。



「泣くなって」


笑い混じりに言った冬矢は、親指の腹で私の頬を拭う。
その指を、更に零れてくる涙が濡らした。私を見つめる冬矢が、優しい目を細める。



「ほら、行け」


駄々をこねる子供を幼稚園に送り出す母親のように、そっと優しく私の背中に
手を当てて、そこに少しの力を込める。それに押されて、私は一歩、そこから
踏み出した。

振り向こうと首を動かした瞬間、後ろから温かい何かに顔を挟まれて、
無理やり前を向かされる。



「ほら、早く」


そう言った冬矢の声は、相変わらず優しかった。
だけどその声が震えてることなんて、嫌でもすぐに分かる。

もう何年も、ずっと一緒にやってきた。


黙ってその両手から離れ、重い灰色の扉に向かって歩き出す。
苦しくなるほど涙が溢れてきたけど、振り返ることはもうできなかった。


扉に辿り着きドアノブに手をかけ、首を横に向ける。
もうそこに、冬矢の姿はなかった。







扉を押し開ける。瞬間、奥から足音が聞こえてきて。


「怜っ」

扉の前で屈みこんだ私の肩を、しっかりと隼斗が掴み、支える。



「大丈夫か?」


気遣うように私を覗き込んだその瞳を視界におさめないうちに、
私は声を上げて泣き出した。








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