言葉にできない
     I love you
11


「……平気か?」


ゆっくりと私をソファに座らせた隼斗は、私の前にしゃがみ込み、
心配そうに眉を上げて私を覗き込む。



「うん、ごめん」

消え入りそうなほど小さく呟いた私に、隼斗は柔らかく目を細めた。




「俺の方こそ、ごめん。俺のせいで……」


それ以上の言葉なんて、一切必要なかった。



隼斗は、私が涙を流した理由も、自分のいない扉の向こうで何が起こったかも、
きっと全て分かってる。




「気にしないで。私たちの方に問題があっただけだから」


くぐもった鼻声のまま、できるだけ優しく言う。



私たち、なんかじゃない。冬矢は何も悪くなんてなかった。

いつだって私に優しくて、いつだって温かく見守っててくれて。
さっきだって、決して私を責めたりしなかった。悪かったのは、全部私だ。


冬矢を裏切って、隼斗を選んでしまった。
冬矢を一番に、愛してあげられなかった。





「怜、俺……」


片手を上げる。ゆっくりと上げられたその手は、私と隼斗の間、
躊躇するかのように宙で止まった。



「俺、期待してもいいの?」


熱い瞳が、私を真っ直ぐに見つめる。ぐらり、と視界が揺らいだ。
その視線から逃れることなんて、できなかった。





機械音が、空気を切り裂く。肩を飛び跳ねさせた。
来客を告げる音だった。黙って立ち上がり、隼斗の横をすり抜ける。

高鳴りを隠せないでいる胸に、深く息を吸い入れた。閑静で冷たい廊下を抜け、
ドアノブに手をかける。頬が酷く火照っていた。扉を押す。





「花純」


目の前に現れた見慣れた笑顔に、私はその名前を呟く。
同じ大学で、中学時代の友人だ。



「この間借りてた本、返しに来たの」


某ショップの袋を握り締めた右手を持ち上げた花純は、
その人懐っこい笑みを浮かべる。それを右手を差し出して受け取る。

先週、三冊ほど資料を貸していたことを、ようやく思い出した。




「怜ー」

室内から、低音に呼ばれて。心臓を飛び跳ねさせて、一度息を吸ってから振り返る。


「電話だけど」


私の携帯を収めた片手を私に見せるように掲げた隼斗の表情は、
逆光になって見えなかった。



「あー、ちょっと出てくれる?」


冬矢から電話がかかってくるとは思えない。隼斗の存在がばれて困るような相手は、
今のところはいないだろう。

分かった、と頷いて消えた隼斗に、私は曖昧な笑みを浮かべて振り返る。



「ごめん。わざわざありがと」


問題は、ここにいるこの女だ。
呆気に取られた表情のまま固まっていた花純は、曖昧に頷く。



「ううん。じゃ、またね」


全ての感情を押し隠すように笑った花純は、片手をひらり、と上げる。
空いていた左手を振った。



扉を閉め、深く息を吐く。今日は百歩譲って触れずに引き下がってくれたんだろう
けど、あの花純がこの出来事を黙って見過ごすとは、とても思えない。







「誰からだった?」

リビングに入り、電話をかけている気配の全くない隼斗の後姿に尋ねる。



「美里ちゃんから。大した用じゃないから、また明日でいいって」


振り返って愛想の良い笑みを浮かべた隼斗に、そ、と素っ気なく頷く。
また面倒が一つ増えた。




「夕飯作るの、手伝うよ」


ソファに身を預けていた隼斗は、膝に手を付いて立ち上がる。
私を見て目を細めた隼斗に、小さく頷いた。



本当はさっきの問いの答えを、まだ探しているはずだ。
それなのに隼斗は、いつだって私を気遣ってくれる。

私は未だに、何一つとして返すことができないまま。












「ちょっと怜ー」


トレーを両手で持ったまま、花純が大きな声を張り上げて駆け寄ってくる。
学食内にいた女の子達数人が、声の主をちらり、と見遣った。



「何よ昨日の! あれ冬矢さんじゃないでしょ?」


昼食を机上に置いた花純は、興奮したように立ったまま身を乗り出した。

逆光になって顔こそは見えなかっただろうけど、それでも冬矢か否かくらいは、
すぐに判別できただろう。



「何々?」


私の向かい、花純の隣に座っていた千佳が興味津々に目を輝かせる。
カレーを頬張っていた美里も、顔を上げた。



「昨日怜んちに、冬矢さんじゃない男がいたのっ」


大袈裟すぎるような口調で言った花純は、豪快に割り箸を割る。
斜めに割れたそれを気にせず、花純はそれで唐揚げを摘み、頬張った。



「あれ? あれあれー?」


茶目っ気たっぷりの口調で言った千佳は、八重歯を見せて、
その輝いた目で私を覗き込む。



「昨日も電話、冬矢さんじゃない男の人が出たんだよねー」


本当はその答えを知っているはずの美里まで、面白がって便乗する。
その含み笑いを、眉を寄せて睨み付けた。

美里相手に、あいつが名乗らないとも思えない。





「すっかり隼斗君にはまっちゃってるねー」


人差し指を立てて、くるくると私の鼻先で回した千佳に、睨みを移動させる。



「えっ……?」


突然素っ頓狂な声を上げた花純に、眉を顰める。
美里も千佳も、驚いたように彼女を見た。



「何?」


いつまでも驚いた表情で固まったままの花純に、千佳が促すように尋ねる。
何故か、胸を嫌な予感が奔った。





「や、なんかこの間亜季に会ったんだけどさ。
その時に聞いた亜季の彼氏の名前と同じだったから、びっくりしちゃって」



するり、と手に持っていたグラスがすり抜ける。
机の角に当たったそれは、水と共に砕け散った。





「大丈夫?」


すぐ傍に置いてあった学食の布巾を手に取った美里は、
飛び散ったガラスを一つ一つ摘み上げ、水を布巾で吸い取っていく。
ごめん、と弱弱しく呟いた。



「あ、でも偶然じゃない? 隼斗なんて、どこにでもいそうな名前だし」

私の心の中の動揺に気付く由もない花純は、明るく取り成すように言う。




「そうかもね」

曖昧に笑った私は、ガラスの最後の一かけらを摘み上げた。





誰かが偶然だと言ったって、誰かが人違いだと言ったって、
そんなの耳になんて入るはずがなかった。


光を浴びた刃物が、脳裏を掠める。私は強く目を瞑った。








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