言葉にできない
     I love you
13


機械音に、心臓を飛び跳ねさせる。身を沈めていたソファから立ち上がり、玄関に向かった。


どれくらいの間、座り込んでいたか分からない。
朝起きてから何をしたのか、昨日どうやって眠りについたのかすら、思い出せない。





鍵を開けて、重い扉を押す。ふわり、と一瞬バーバリーの匂いが香った気がした。


「よっ」

目を細めて笑った隼斗は、片手を上げる。その笑顔は、どこか無理やりな作り笑いにも見えた。



「どうぞ」


曖昧に余所行きの笑みを浮かべた私は、身体を後退させて隼斗を部屋の中入れる。
すぐ隣に入り込んできた隼斗に、胸が急激に苦しくなった。

痛みを紛らわすように、浅くため息を吐き出す。



靴を脱いで先を歩き始めた隼斗の背中を追った。
廊下を抜けてリビングに出たところで、隼斗の背中が止まる。





「俊貴から聞いた」


遠慮がちに振り返って私を見た隼斗に、眉を寄せる。
あの合コンの後、私は一切俊貴には関わっていないはずだ。



「あいつ、余計なこと喋りまくったって……」


気まずそうに目を逸らした隼斗に、内心納得する。それ以上の言葉なんて、一つも必要なかった。
隼斗はそんなことの弁解をするために、ここまで来たのだ。




「俺、本当に彼女なんていないから」


顔を上げた隼斗は、私の目を真っ直ぐに見つめる。嘘をついてるとは、とても思えない真剣な顔。
だから今まで、騙されてきた。



「嘘、つかないでよ」


我ながらに、弱弱しく震えた声だった。騒がしい街角で見つけた、笑い合う二人。
胸に激しい痛みが奔って、思わず目を伏せる。



「嘘じゃない」

若干眉を寄せた隼斗は、さっきよりも強い口調で訴えて私の肩を掴む。




「だって私見たの!」


腕を振って、隼斗の手を勢いよく払った。一瞬悲しそうに眉が上げられたのを見たけど、
止めることなんてできるはずもなかった。



「昨日、亜季と二人で歩いてたでしょ?」


語気を荒くして言った私に、隼斗は目を見開いたまま固まる。涙が溢れ出しそうなほど、
胸に激痛が奔った。



隠す理由がどこにあるのかなんて知らない。何で相手が亜季なのかも。


だけど私はこの目で見た。
隼斗は他の誰でもなく、紛れもなく私のただ一人の妹、亜季と笑い合っていたのだ。





「……付き合ってたんだ?」


興奮が冷め切らないまま、震えた声で尋ねる。
本当は、答えなんてほしくない。肯定しか返ってくるはずがないこと、もう分かってる。




「ああ」


静かに、躊躇いがちに導き出された予想通りの答えに、私は強く目を瞑る。
そんな答え、聞きたくなんてなかった。






「怜」

低く呟かれた、どこか切ない隼斗の声に、私は顔を上げずに黙る。



「今更言い訳にしか聞こえないかもしれないけど、聞いて」

物悲しそうに、隼斗は私に語りかける。尚も、痛みから逃げるように背けた顔を、上げることはできなかった。



「お前と別れてから、俺、恋愛できなくなったんだ。女と付き合っても感情入れられなくて、遊びばっかり。
適当な付き合いばっかり重ねてた」

ゆっくりと目を開き、目の前に広がるフローリングを、ただ黙って見つめる。





「だけど大学行って亜季に再会して、自然に一緒にいるようになって、あいつに告白されて。
やっと本気になれるんじゃないかって、そう思ったんだ。あいつといる時は、楽しかったし」


高校時代の、同じ部活の先輩後輩だった二人。お母さんの宝石箱を覗き込んで目を輝かせたような、
そんな表情の亜季が思い浮かぶ。きっとそうやって、今までずっと隼斗の前で輝いてきた。




「だけどどっかで、いつもいつも怜と重ねてた。怜と再会したとき、はっきり気づいたんだ。
俺が好きなのは亜季じゃない。……昔から、少しも変わってなんかいなかったんだって」


隼斗の言葉に、顔を上げる。真っ直ぐに、私の視線と隼斗の視線がぶつかり合った。



「亜季には、好きな奴がいるって伝えた。あいつはそれでもいいって言ったけど……
俺にとってはそうじゃない。だから昨日、別れてきた」


何の根拠もなかった。ずっと嘘を吐き続けられてきた。
だけどそれでも、隼斗の言葉を嘘だと思うことは、もうできなかった。

床が軋む。段々近づいてきた隼斗は、私のすぐ目の前で足を止めた。真っ直ぐに、彼を見上げる。





「俺は、怜のことが好きだ」


その澄んだ真っ直ぐな瞳が、私を捉える。心臓が、止まった。



「この言葉も、まだ信じてもらえない?」


優しく目を細めた隼斗に、私は零れそうになる涙を堪える。



私が、隼斗を散々傷つけた。だから隼斗は、その傷を抱え続けてきた。

あの事件の後、傷を負ったのは私だけなんかじゃなかった。
私が、今でもきっと癒えきれない傷を、隼斗に負わせたんだ。


それでも隼斗は、私を好きだと言ってくれる。こうして私を見つめてくれて、微笑みかけてくれる。



堪えていた涙が、一粒零れ落ちる。目一杯に優しい笑顔を向けた隼斗は、
私の頬にそっと手を添えた。まだ歪んだ世界で、隼斗の目を見つめる。

柔らかく目を細めた隼斗は、そっと私に顔を近づけた。そっと、瞼を閉じる。溢れ出した涙が、頬を伝った。



優しく、そっと唇に温かいものが触れる。胸が締め付けられるように苦しくなった。甘い香りが充満する。
力を抜いた唇と唇の間から、何かを追い求めるように素早く舌が入り込んでくる。

隼斗の温もりに、胸がどうしようもないくらい疼いて。だけどやっぱり、どこか痛かった。












二人の間を、どちらの物か分からない、熱い吐息が支配する。
隼斗の大きな掌が身体をなぞる度、どうしようもないほど触れられたところが熱くなる。



「怜……」


甘く囁いた低音に、身体が疼く。隼斗を見つめた。熱く潤んだ、その真っ直ぐな目。
あの頃と、何も変わらず私を真っ直ぐに見つめ、求めてくれる目。

目を閉じる暇もなく、唇が塞がれる。ひたすらに、貪るように求め続ける。


全てが、苦しくなるほどに愛おしかった。僅かに離れた唇から、甘い吐息が漏れる。
全身から感じる隼斗の熱に、溶かされてしまいそうだった。



瞬間、首に回していた手を隼斗が掴んだ。じっと、隼斗は私の腕を目の前に持ってきて見つめる。
慌てて引っ込めようとした瞬間、掴んでいた手に力が込められた。

隼斗に晒したのは、紛れもない、あの日追った深い傷。




「これ……」

衝撃と悲しみが入り混じったような表情で、隼斗はその大きな傷跡に視線を這わせる。



「転んだの。大分前に」


照れたような表情を作って、はにかむ。隼斗は、黙って眉を寄せた。転んで出来るような傷じゃない。
どうすればこんな傷がつくのか、それくらい隼斗には十分なほど察しが付くはず。

だけど本当のことを話すわけにはいかなかった。



「大したことないから、本当に」


私の腕を掴み続ける隼斗の手にそっと触れ、柔らかく拒否する。隼斗が、悲しそうに私を見た。
逃れるように、視線を逸らす。





あの日私に何があったか、どうして私が隼斗に別れを告げたのか。
知ったらきっと、隼斗は自分を責める。


そしてあの時以上に、私のせいで深い傷を負うんだ。








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