言葉にできない
     I love you
14


ゆっくりと、僅かに瞼を開く。ぼんやりと頭が重かった。

首に何かの違和感を感じて。視界をはっきりとさせた瞬間目を見開く。
私の首にしっかりと腕を回した、少し間の抜けた男の寝顔が目の前にあった。



浅く長いため息を吐き出す。

身体を重ねたのは、本当に久しぶりだったはずなのに、
心は完全にあの頃に戻っていた。あの日の出来事なんて、全て忘れ去ったかのように。

あの痛みを忘れられるような夜を、隼斗が作ってくれたんだ。





そっと、そのしっかりとした腕に触れ、それを持ち上げる。
私の動かす通りに従ったその腕を私と隼斗の間に収め、身体を起こす。

腰の辺りに、鈍い痛みが奔った。眉を寄せる。だけどどこか、やっぱり幸せを実感していて。




足をベッドから出そうとした瞬間、手首をしっかりと掴まれた。
振り返ろうとした瞬間、後頭部に手を強引に差し入れられ、後ろに強く押し付けられる。

驚きに声を上げようとしたその口は、熱いその唇に塞がれた。


少し強引に、何かを追い求めるように私の舌に絡まる熱い舌。
貪るような激しいキスに、呼吸が熱くなっていく。



ようやく離された唇に、熱い吐息が漏れた。キスの間に再び私をベッドに押し付けた
目の前の男は、息を荒げながらも満足そうにどこか悪戯な笑みを浮かべる。





「おはよ」

寝ぐせのついたままの頭を、私の額に触れ合わせる。


「おはよ」

小さく返して、微笑みを浮かべる。




「あぁー、やっべ」

私の首元に顔を埋めた隼斗は、私の耳元でどこか嬉しそうに言う。


「俺、今めちゃめちゃ幸せ」

本当に幸せそうに笑った隼斗に、首元がくすぐったくなって笑いを漏らす。




「うん」

最高の笑顔を添えて、頷いた。


もう二度と、戻ってこないと思っていた隼斗との幸せ。
あの日私は、隼斗に関する全てを失ってしまったと、そう思っていた。だけどそれは、今私のすぐ傍にある。





「よし、起きよっ」


掛け声を上げた隼斗は、上半身を起こし、私の腕を取って私も起こす。
柔らかく目を細めた隼斗に、私も笑顔を返した。


ベッドから抜け出て、素早く洋服を身に着けていく。
もたもたと着替えをしている隼斗を置いて、私は扉を開け、台所に向かった。



野菜室を引き出し、真っ赤に染まったトマトを一つ取り出す。
指先が、それによって冷やされた。小さく笑みを浮かべて、レタスを手に取り野菜室を閉める。



瞬間、大きな機械音が響き渡った。驚いて肩を揺らし、思わず手に持っていた野菜を床に落とす。
背筋を、冷たい物が奔った。



急いでインターフォンを取る。





「はい」


相手の顔はまだ見えないのに、何故か声が頼りなく震えた。思えばもう九時を回っている。
誰が訪ねて来たっておかしくない時間だ。心の中で、自分を嘲笑う。





「お姉ちゃん、私。亜季」


遠慮がちに聞こえてきた声に、私は目を見張った。
思わず取り落としそうになった受話器を、震える手でしっかりと握り締める。



「今開けるね」


昔通り、極力柔らかな優しい声で言って、押しつけるように強く受話器を戻す。
背後で、床が鳴った気がして。はっとして勢いよく振り返る。





「誰か来た?」

服を着終わった隼斗が、きょとんとした顔で私に尋ねた。


「亜季が……」

小さく消え入りそうな声で囁いた私に、隼斗は目を丸くする。本当に、もうこのまま消えてしまいたかった。



「部屋から出ないで」


隼斗に歩み寄り、その腕にそっと触れて部屋の方へ押す。真剣な顔で私を見つめた隼斗は、静かに頷いた。



隼斗の背中が部屋の中へ吸い込まれて、その扉が閉められるのを見届け、私は玄関へと歩みを進める。
心臓が高鳴って痛かった。もうとっくに癒えたはずの傷が、痛み出す。





ゆっくりと震える手で鍵を開ける。重たい音が響いた。
一度深く息を吸い込み、重い扉を押し開ける。俯いていた女の子が、顔を上げた。





「久しぶり」


しっかりと笑みを添えて遠慮がちに言った私に、亜季が泣きそうな笑顔を浮かべる。
最後に真っ直ぐに見つめ合ったのは、一体いつだったんだろうか。



「入る?」


戸惑いながらも尋ねた私に、亜季は嬉しそうに笑って頷いた。
もう何年も喋った記憶がなくて。血の繋がった妹と、どう接すればいいのかすら、思い出せなかった。


後ろに一歩引いて、亜季を中に招き入れる。遠慮がちな仕草で私の横を通り過ぎた亜季は、
若干屈んでパンプスを脱ぐ。瞬間、バーバリーの香水が香って。胸が締め付けられるように痛かった。







「どうしたの? 急に来るなんて……」


先を歩き始めた亜季の背中に、躊躇しながらも尋ねる。
理由なんて、見つからなかった。大体、彼女はこの場所を知らないはずだ。



「場所、お母さんに聞いたの。どうしても、お姉ちゃんに話しておきたいことがあったから……」


リビングに入った亜季は、ソファの前に座り込む。
あまりにも明るい口調に、戸惑いを隠せずに視線を泳がせる。


不自然な沈黙に、何か言葉を返そうと顔を上げた瞬間、
黙りこんで一点を見つめる亜季の視線の先に気づいた。心臓が、壊れそうなほどに飛び跳ねる。







「ねえ……」

さっきとは打って変わった、震えた声だった。憎しみのこもった。





「……何でここに、隼斗の携帯があるの?」


静かに、だけど尚も震えた声で言った亜季に、私は涙が溢れ出しそうになるのをぐっと堪え、
下唇を噛み締めた。


唐突に立ち上がった亜季はすぐに身を翻して、今来た道を物凄い勢いで戻っていく。
木と木のぶつかる、固い音が響いた。



慌てて後を追った私は、部屋の前に立ちはだかる亜季の背中に追いつく。
その向こうに、悲しそうな表情で立ち竦む隼斗が見えた。亜季が、勢いよく振り返る。

目を瞑るよりも先に、高い音と共に左頬に激しい痛みが奔った。





「最っ低!」

何度も繰り返してきた夢の中の声と、目の前にいる亜季の叫び声が重なる。



「亜季……っ」


焦ったように、切迫した声で隼斗が呼びかけた。
亜季は、涙を堪えるように下唇を噛み締めて、私から顔を逸らす。





「やっぱり、お姉ちゃんだったんだ。隼斗の好きな人って」


涙が零れ落ちないように、下唇をきつく噛み締める。隼斗は黙ったままだった。
せせら笑うように、亜季が片方の唇の端を吊り上げた。



「最低だよね。私がどれだけ隼斗のこと好きか、知ってたくせに……」


今にも消え入りそうな声で言った亜季が、視界の中で僅かに歪む。
知っていた。私が誰よりも、亜季の気持ちを分かっているつもりだった。





「亜季、あのね……っ」

「言い訳なんて聞きたくないっ!」



激しい金切り声で私の言葉を遮った亜季は、
ようやく顔を上げてその潤み赤く染まった目で私を強く睨みつける。





「あんたなんか、大っ嫌い!」


大声で叫んだ亜季は、私を突き飛ばしてそのまま部屋を出ていく。彼女の頬に伝った涙を見た。
がたがたと玄関の方が音を立て、やがて静まり返る。







「怜……」


囁くように呼びかけた隼斗の声には、気遣いの色が溢れていて。
それでも私はそれを無言で拒否して、目を強く瞑る。





「もう、嫌……」

震えた声で、小さく呟いた。一粒、固く瞑った瞼の隙間から、涙が零れ出す。



「何で私がこんな目に合うのっ?」


悲しそうに目を細めた隼斗の顔を睨みつける。



今も昔も、何も変わらない。
こうして私たちの恋は、誰かを深く傷つけ、そして自分自身を激しく痛めつける。





「こんなことになるんだったら、最初から隼斗のことなんか、好きになるんじゃなかった!」


溢れ出してくる想いを、痛みと共に隼斗にぶつける。
この身が引き裂かれてしまいそうだった。





「……それ、マジで言ってんの?」


若干の冷たさをも帯びた隼斗の声が、静まり返った部屋に響く。
何も言わずに顔を逸らし、下唇を噛み締めた。





「……分かった」


静かに呟いた隼斗の声に、私は勢いよく顔を上げる。もうそこに、隼斗の姿はなくて。
焦って玄関の方を向くと、彼の大きな背中が、重い扉の中に吸い込まれた。


膝から崩れ落ちるようにその場に座り込む。瞬間、声を上げて泣き崩れた。








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