言葉にできない
     I love you
16


鞄の片方の紐を落とし、そこに付いたファスナーを開ける。

大きな口を開けた鞄の中にその写真を入れようとして、ふと手を止める。文字が、見えたのだ。



紙を目の前に持ってきて、裏返す。目を見張った。





"怜へ 来年は一緒に回ろうな。隼斗"


不器用な隼斗らしい、少し乱雑な曲がった字だった。幸せを噛み締めるように笑みを浮かべる。
それと同時に、胸が少し痛んだ。




隼斗は何も言わなかった。私が、一緒には回れないと言った時。

だけど本当は、他の誰よりも私と一緒に過ごしていたかったはずだ。わざわざ部活の出し物を
抜け出して私の教室まで来てくれた時に、そんなことはとっくに分かっていたはずだったのに。



心の中で、見えない何かが湧き始める。
私のするべきこと、本当は分かっているんだ。いつまでも逃げていても仕方がない。


ぐっと写真を握り締める。
私が踏み出さなければ、誰も代わりになんて踏み出してくれない。

下唇を噛み締めた。












真っ先に向かった台所に、亜季の背中を見つけた。私の足音に振り返った亜季は、笑顔を浮かべる。



「おかえり」

私と同じ制服姿のまま、清涼飲料水を片手に持った亜季が笑みを浮かべる。



「ただいま」


同じように笑みを浮かべて優しく返し、鞄をカウンターの上に乗せる。
それを開き、何の考えもなしにいつものように弁当箱を取り出した。

瞬間、目の前を白い何かが舞ってから、私は今更に激しく後悔した。



亜季が、鞄から飛び出しひらひらと落ちたその一枚の紙切れを、興味深そうな顔で拾い上げる。
その瞬間、その顔が張り付いたように固まった。思わず目を逸らし、強く唇を噛み締める。







「……何、これ」


小さく、その震えた唇がようやく言葉を発する。
こんなの嘘、とでも言うように、その口元に僅かに空気の混じった笑みが浮かんだ。



「何で、お姉ちゃんと隼斗先輩が一緒にいるの……?」


その震える手で、写真が握り締められる。
その手で、心臓を握り潰されているような、そんな感覚がした。



「お姉ちゃん、彼氏いないって言ってたじゃん。隼斗先輩だって……」

うわ言のように呟いた亜季の目が、見る間に赤く染まっていく。





「……ごめん」


小さく、震える声で一言呟いた。


隼斗と一緒に時を過ごすようになってから、何度も心の中で亜季に繰り返してきた言葉。
だけど私は弱いから、そんな言葉、口が裂けても言えなかった。





「最っ低……」


突き刺すように強く、その赤く染まった目が私を睨みつける。息をのんだ。
亜季のこんな瞳を見たことなんてなかった。



震える手が、探るようにカウンターの上を彷徨う。胸に、何故か嫌な予感が奔った。
置きっぱなしにされていた包丁の柄に、その白い指が僅かに触れて。






「あんたなんか、死ねばいいっ!」


叫びながら、勢いよくそれを掴み取った亜季は、その右腕を振り上げる。

私は咄嗟に、腕を顔の目の前で交差させた。瞬間、腕に一直線に焼き付くような熱が奔る。
直後、どくり、と腕の中心が波打ち、そこから貫くほどの痛みを感じる。


腕を抱え込み、膝を折り曲げ必死で下唇を噛む。そうしていることでしか、意識を保つことができなかった。






「どうしたの? 大声なんて上げて……って、怜!?」


リビングから顔を出しに来たであろう母親が、血相を変えて勢いよく私に駆け寄ってくる。
それに答えることはできなかった。じんわりと、額に冷たい汗が浮かぶ。



「亜季、あなた……っ」


声を震わせて驚愕の表情で言った母に、私は視線を亜季に巡らせる。
真っ青な顔をした亜季は、私の血で赤く染まった包丁を持ったまま、呆然と立ち尽くしていた。


右腕を握り締める左手で、激しい脈を感じる。そこを伝い落ちる真っ赤な血は、いつまでも生温かかった。












はっと息を継ぐ。気付いて阻止しようとした時にはもう遅くて。全身を悪寒が襲った。
低く、静かに細く息を吐き出す。それが震えているのに気づいた。


ベッドの上で上半身を起こし、冷や汗で湿った額を両手で包む。
その手には、まだあの日の生温い温度が染みついていた。





久しぶりに見た、あの日の夢。元凶は分かりきっていた。
昨日の、赤く潤んだ亜季の瞳を思い出す。だがそれはすぐに、何度も夢で見たあの目と重なった。







あの日、気付いたら私は真っ白な部屋の中に閉じ込められていた。
大量出血のせいで気を失ったらしい。涙を零して喜ぶ両親たちの中に、亜季の姿は当然のようになかった。





それから亜季は、いつの間にか学校から姿を消していて。

それを私は両親からでもなく、ただの部活の後輩から知らされたのだ。
どうして亜季は突然転校してしまったのだと。


両親からは、友達のところに遊びに行っただの何だのと誤魔化され続けてきた私は、
その時事がどこに向かっているのかにようやく気付かされた。




事に気づいた時にはもう遅く、亜季は完全に私の生活の中から抹殺されていた。

どこかから聞いた話では、青森の母方の実家の方へ預けられたらしかったが、
連絡を取ろうと亜季の携帯に電話をかけると、その着信音はすぐ隣の部屋から聞こえてきた。





それから何度か顔を合わせたのは、法事の時だったか。

いずれにせよ、心配する親の目を誤魔化して交わした言葉は思い出せないほど少なかったし、
目を合わすことすら叶わず、歩み寄りたいという私の気持ちとは裏腹に本能は亜季を徹底的に恐れ、
避け続けていた。



亜季とは中学時代の部活の先輩後輩で、唯一少しの連絡を取り合っていた花純から、
色々と差し障りのない程度の報告は受けていた。

亜季が隼斗と同じ三國大に入学したと聞いたのも、花純からだ。





私に残された感情は、逃げられた悔しさでも、傷つけられた怒りや憎しみでもなかった。


ただ悲しかった。ただ一人の、大事な妹を失ったということが。
傷つけないようにと今まで辛い思いをしても耐えてきたのに、その妹にあんな顔をさせたことが。

ただただ、悲しすぎた。



そっと、震える左手で右腕に触れる。出迎えた凹凸に、肩で大きく息をする。
強く、目を瞑った。








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