俺と彼女と…
07


「智也、辛いもの平気だったよね?」

何気なく真っ赤なトマトを手に取った菜月は、俺を見上げる。



「平気だよ」

灰色の籠を手にしたまま、返す。



頭の中には、あの日の光景が浮かび上がっていて。
それでも、記憶の中の彼女と、目の前で微笑みながらトマトを見つめている菜月を重ねることは、
どうしてもできなかった。




「じゃ、今日はアラビアータにしよっ」

弾んだ声で言った菜月は、トマトを一個手に取り、俺の持っている籠に入れる。



「一個でいいの?」

既に周りに視線を巡らせていた菜月に、尋ねる。



「トマト缶と半々で使うの」

明るく言った彼女は、どうやら相当料理方面に強そうだった。





「バジルあるかなぁ……」


顎に手を当てて、彼女は首を捻る。同じように、俺も首を回した。
ほうれん草の横に、小さく緑の葉を置いてあるスペースがあった。




「あれじゃね?」


その棚を指差し、顔を背けていた菜月に声をかける。
あ、本当だ、と笑みを浮かべた菜月は、輝くような目をして、そこへと小走りに駆け寄る。

俺もその後を追った。バジルのパックを手に、菜月は上半身を屈める。


セーターから覗くその胸元に、自然と視線が滑り込む。
瞬間、ずっと尋ねようと思っていた疑問が脳裏を掠める。





「そのネックレス……」

小さく呟いた俺に、菜月が顔を上げてきょとん、と目を丸くする。



「いつも付けてるな、って」

付け足すように言った俺に、菜月は少し恥ずかしそうに胸元に手を当てる。


彼女がそのネックレスを外したことはない。
俺が彼女を抱いた時も、そのネックレスは俺と彼女の間に、冷たい壁のように存在していた。




「お姉ちゃんから、貰ったの」

はにかんだ彼女は、頬を染める。そうなんだ、と軽く納得した風に頷く。


シンプルなプレート。女物にしては少し造りがしっかりしていて。
明るくも、どこか儚げな雰囲気を醸し出す彼女には、正直似合うとは言い切れないものだ。




「あっち行こっ」


明るく笑って彼女は俺の手を引く。
その柔らかな肌が触れた瞬間、心の中にあった全ての疑問は一気に吹き飛んでいった。












鞄の中から、俺のそれとほとんど同類の鉄の小さな塊を取り出した菜月は、それを鍵穴へ差し込む。
それを回して、彼女は首を捻る。俺も眉を顰めた。

何の音も、立たなかったのだ。



それでも彼女は特別恐れを抱く、ということもなく、難なく扉を押す。
彼女の後に続いて、俺は遠慮がちに玄関に上がった。


狭いその空間で彼女の足元を気遣い視線を下ろした瞬間、息をのむ。
同じように下に視線を巡らせた彼女は、それを視界におさめた瞬間、あ、と小さく声を漏らした。


そこには汚い、大きな男物の靴が脱ぎ捨てられていた。



俺に何かを言うでもなく、突き進むように歩き始めた彼女に、俺は焦ってその後を追う。





「龍っ」


廊下の終結を告げる扉を開けた瞬間、彼女は咎めるような口調で、あの名前を呼んだ。
日の下よりも幾分落ちついた色に見えるその茶髪が、そこにはあった。



「お、おかえりー」

雑誌を手にしていた男は、ソファに座ったままそこから顔を上げる。



「来るんなら言ってくれれば良かったのに」


さっきと変わらぬ咎めるような口調で、それでも幾分嬉しさを含んだ声を出した菜月に、
男はわりぃな、と軽く受け流す。まるで常習犯のように。





「……例の、彼氏?」

窺うように、若干遠慮がちに、男は俺に視線を向ける。



「うん」


少し弱弱しく言った菜月もまた、窺うように言った。
最高に居心地が悪かった。それでも内心、ほっとしている自分がいるのに気付く。




「どーも。菜月の兄の龍っす」


好印象な、どこか作り物めいた笑顔を貼り付けた男は、立ち上がって俺に向かって右手を差し出す。
突然のことに、俺の頭はショート寸前だった。

戸惑いがちに菜月を見ると、彼女は苦笑しつつも俺に目で何かの合図を送った。




「藤井智也です」

長身の男を見上げ、俺はそう言いその手を握った。随分と温かな手だった。



「こいつから話は聞いてる。仲良くしてくれよな」

手を離した龍は、その親指で菜月を指した。



「はい」

少し遅れ気味にも、返事を返す。



そこでようやく頭の中の幾つかの断片が繋がっていった。

普通の人間が彼女に対してそんな扱いをすれば腹を立てたところだが、彼は菜月の兄だ。
彼にしては何の変哲もないことなのだろう。





「俺のことは呼び捨てでいいから。後、敬語もNGな」


口を開けて豪快な笑顔を浮かべた龍に、苦笑する。
彼は彼女の兄で、だから当然俺より年上だ。見た目からしても、社会人のように見える。



「もう、龍ってば」

呆れたように呟いた彼女は、それでも愉快そうに笑みを浮かべる。




「だってよー、弟できたみてぇで嬉しいじゃん」


一瞬困ったような表情を作った龍は、それを押し隠すように苦い笑みを浮かべ、後頭部を掻く。
短く、息を吸う乾いた音が響いた気がした。





「……そうだね」

彼女は、目を細め、唇で弧を描く。


だけどその作られた表情には、隠しきれないほどの戸惑いと悲しみが、浮き彫りになっていた。












「心理学部って、何やんの?」

菜月の作ったアラビアータを口の中で消化しながら、龍は俺に尋ねる。



「人間の深層心理について、色んな資料使って調べたり、ディスカッションしたりもするし、実験したりも」

所々赤く色づいたパスタを銀に巻き付けながら言う。へえ、と龍は興味深そうに相槌を打った。




「んじゃ、話してる時とか、相手の気持ち分かっちゃったりとかすんの?」


どこか楽しそうに、龍は身を乗り出す。
その龍の横に当然のように腰を下ろしている菜月は、俺にごめん、と目配せをした。



「いや、そこまでは。でも相手と会った時に、前に会った時からの心境の変化とかには
気付いたりする時もありますよ」

パスタを口に運び、頬張る。僅かながらに、辛さが舌を刺激した。




「そういうのって、どっから判断するわけ?」

未知の世界に足を突っ込んだ少年のように目を輝かせた龍は、俺に尋ねる。



「服装とか、喋り方とか、仕草とか」


答えた俺に、龍は感激したように、まじで、と呟く。



問答の繰り返しに、俺は戸惑っていた。

専門的に学んでいることについて色々と興味を持って尋ねられるのは、決して悪い気のすることではない。


だが、彼が純粋に心理学に興味を持ったのか、俺を探ろうとしているのか、
全く持って推測が付かなかった。






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