俺と彼女と…
08
「龍さんは、何のお仕事してるんすか?」
机上に置かれた、まるで彼女の私物のようにそこに溶け込んだ財布と携帯を視界におさめながら、尋ねる。
ヴィトンのダミエの長財布。
目の前の二人を見つめる。そんなに歳が離れているとも思えない。
「カメラマンなんだ。短大卒だから、もう三年近くやってる」
あっさりと言った龍の言葉に、彼の年齢を知る。大体、俺や菜月より二、三上といったところだろう。
「三ヶ月くらいヨーロッパ行ってて、一昨日帰ってきたばっかりなの」
若干咎めるような口調で言った菜月に、俺は思わず片手を一度震わせる。
陶器と銀が小さく音を立てたけれど、二人がそれを気に留めることはなかった。
分かってはいる。彼女と龍はとても仲の良い兄妹。
だけどそれでも、彼女と龍が目の前で重なった、あの日を忘れることなんて、俺にはできなかった。
「……なんかごめんね」
小さく呟いた菜月の声に、俺は壁のすぐ横で足を止めた。
二人の姿はここからは死角になっていて、窺うことはできなかった。
「ん? 何が?」
軽く尋ねた龍は間違いなく、俺とは違ってその言葉の意味を、知っているはずだった。
龍の開けた缶ビールが溢れ出し、二人で布巾を台所に取りにいって。
それにしても遅いため、若干不安を抱きつつも覗きに来た。
答えは、席を立ったあの瞬間から、本当は分かっていたはずだった。心の中で自分を罵る。
「智也のこと、彼氏って言ってたじゃん……」
まるで隠すように声を小さくした彼女の言葉に、顔がかっと熱くなるのを感じた。
「何だよ、事実だろ」
鼻で笑いながら言った龍には、とても裏があるようには思えない。
「でも……」
「気にすんなって。俺らの仲だろ?」
小さく弱弱しく呟いた菜月の声に、龍は景気付けのように明るく言う。
白い壁の隣で、俺は眉を寄せた。
「でも、龍は……」
「しつこいぞ」
嗜めるように、それでも龍は終始明るくて。
俺の前で無邪気な子供のように明るく振舞う菜月のそれと、重なった。
「俺は、大丈夫だから」
落ち着いた声で、静かに言った龍の言葉が、俺の身体にまで沁み込んで。
菜月の言葉を聞く前に、俺は急くように身を翻し、元来た道を同じように帰った。
絨毯の上に腰を下ろし、まだ火照ったその額を押さえる。
二日前からずっと覚悟はしていたことだというのに、俺の胸の奥は隠しきれないほどに痛んでいた。
根の生えてしまったそこから無理やり立ち上がり、カーテンを開けて鍵を回す。
龍をしっかりと菜月に紹介された日から、既に三日が経とうとしていた。
あれから特にこれと言った進展はなく、相変わらず菜月はいつもの逢瀬に顔を出さないし、
時折寝る間際静まり返った時、隣の部屋から笑い声や話し声が聞こえてきたりもした。
ガラスを横に押しやる。
と、その瞬間甘い花の香りをかき消すように煙草の煙の匂いが入り込んできて、眉を顰めて顔を出す。
間の抜けた表情で柵に寄りかかっていた茶色い頭が、振り返って非常に好意的な笑みを浮かべ、
煙草を持ったままの右手を軽く上げる。
部屋に引き返そうとも思ったけれど、あまりに失礼かと思い、向きをそのままに会釈をした。
「龍さんは」
「龍」
低く呟くように自分の言葉を遮られ、俺は眉を寄せる。瞬間、その意味を察知した。
「龍は、よくここに来るんすね」
「来るんだな」
オウム返しのように短く呟いた龍を睨みつけ、俺は盛大に深いため息をつく。
「龍は、よくここに来るんだな」
棒読みで淡々と述べた俺に、龍は頭を下に下げて噛み殺すように笑う。最高に不快だった。
「心配だからな、菜月のこと」
笑いを収めた龍は、真っ直ぐ遠くを見つめて静かに呟く。
その瞳には、目に見えない何かが映されているような気がして。
闇に白い灰が落とされて、それはすぐに見えなくなった。
「お前、菜月のこと好きか?」
黙っていた俺に、ゆらりと頭を揺らした龍が、瞳だけを俺に向けて尋ねる。
ふざけているようでも、からかっているようでもない、その言葉の帯びる空気に、唾を飲む。
「当たり前だろ」
それでも強く、ぶっきら棒に返す。問われる以前の問題だ。
龍がその問いを尋ねる相手として相応しいのは、菜月の方。
「なら、良かった」
どこか穏やかに、だけどどこか物悲しそうな表情で眉を上げた龍は、白い息を長く吐き出す。
「あいつのこと、幸せにしてやって」
身体を俺の方に僅かに向けた龍の瞳に、俺は息をのむ。
笑っていたけど、その瞳はやっぱりどこか悲しげだった。
「ああ」
しっかりと、頷く。
例えそれが、龍の代わりとしての役目だったとしても。それでも俺には、どうする術もなかった。
「あ、そうそう」
ジーパンの後ろポケットに手を突っ込んだ龍は、そこから銀色の携帯用灰皿を取り出し、
そこに持て余していた煙草を突っ込む。
「あいつ、あんま酒強くねえから、飲ませないで」
軽い口調で言った龍に、分かった、と呟いて小さく頷く。でもどこか引っ掛かりを覚えた。
何度か仲間と共に食事にも行ったけれど、酒に弱いというような話を聞いたこともないし、
当然のように酒は少量ずつ飲んでいたけど、菜月が酔っているのも見た事がない。
「それと、あいつの部屋のクローゼットだけは、絶対開けんなよ」
さっきとさほど変わらない軽い口調で、それでも真剣すぎるほどの視線を俺に刺した龍に、
俺は眉を顰めた。
彼女の部屋、それでも俺のと少しも変わらない位置に配置されたクローゼットを、記憶の中で探り当てる。
特別何かがありそうなものでもなく、ただの何の変哲もない綺麗なクローゼットだった。
龍の冷たいとも取れる強い瞳に、俺は疑問を抱きつつも、頷く。
色んな事がどこかで引っ掛かって、それが積み重なっていくのを感じた。
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