俺と彼女と…
09


踏みしめる足が、乾いた音を薄暗い空間に響かせた。
段差を全て昇り終え、目的地へと顔を上げる。


すぐ視線の先に、女性が立っていた。OLだろう。
品の良いグレーのスーツを着込んでいて、長く伸びた茶髪は綺麗にウェーブしていた。



見覚えのない女性の姿に、眉を顰める。
そこでようやく、彼女が立っている場所の目の前に位置す扉が、自分のそれではないことに気づいた。

浅くため息をつき足を踏み出した俺に、女性が顔を上げる。



会釈くらいはしようか、なんて考えているうちに、彼女はヒールを鳴らして三歩こちらに歩み寄った。

手を伸ばせば触れられるだろう距離まで来た女性は、珍しい物を見るかのように、
俺をその綺麗な二重の目で見つめる。





「智也君……だっけ」


不可解に思い口を開こうとした瞬間、それを遮られ増して自分の名前を見ず知らずの
年上の女性に言い当てられ、俺は眉を最大限に顰める。




「はい?」


近寄ってみると分かる予想以上に長身なその女性に、間の抜けた返事を返す。
途端に、にこりとその女性がそれまた上品な笑みを浮かべた。




「初めまして。私、菜月の姉の愛です」


愛想の良い笑顔を添えて、難なく自然に告げられたその言葉に、俺は口をぽかりと開けて、目を丸くした。
無意識のうちに、もう一度目の前の女性を上から下まで眺める。

やはり何度見ても、モデルのような体型の持ち主だった。




「あ、どうも」


咄嗟に情けないほどありきたりな言葉が口から出る。小さく、可笑しそうに女性が笑みを零す。
だがそんなことに恥辱を感じている場合ではなかった。



「菜月から、話は聞いてる」

僅かにまだ笑いを残したままの女性は、俺にスマートに告げる。はぁ、と曖昧に答えた。





「あ」


唐突に小さく漏らした彼女は、俺の背後に視線を這わせた。肩を回して、振り返る。
赤茶の頭が見え、直後その下に白い肌と紅潮した頬が見えた。




「あ、智也」


俺の靴を視界に入れた菜月は、ぱっと顔を上げて晴れやかな笑みを浮かべる。
指し示すように視線を女性の方に向けた俺に、菜月もその視線の先を移動させる。




「愛ちゃん」

姉の姿を視界に入れた菜月は、満面の笑みを浮かべる。




「おかえり」

明るい笑顔で言った愛に、菜月は弾んだ声でただいま、と返す。



微笑ましい姉妹の様子のはずなのに、何故かどこかに違和感を感じて。
それをすぐさま頭の中で否定し、打ち消した。












ちょっと待ってて、と俺と彼女の姉の愛さんに言い残した菜月は、二十分後に幾つかの皿を手に戻ってきた。




「どうぞ」


目の前に差し出された、まるで芸術品かのように美しい完璧なオムライスに、
俺は黙って目を輝かせる。嬉しそうに菜月が微笑みを浮かべた。




「良かったの? 私まで頂いちゃって」


座る姿勢も相も変わらず美しいままの愛さんが、気遣うように菜月を見る。
全然いいよ、と明るく菜月が言った。どの言葉も、真っ直ぐに心に入ってこない。

自分の心にしこりの様に存在する蟠りに気付かぬふりをして、冷えたスプーンで黄色を齧る。





「最近龍来てる?」

オムライスを頬ばった愛さんが、くるりとしたその大きな瞳を菜月に向けて、尋ねる。



「相変わらず、毎日来てるよ。しつこいくらい」

参ったように言った菜月は、可愛らしくその八重歯を覗かせる。胸に苦い痛みが奔った。




「ほんと暇よね。私も近かったらもっと来るんだけど」

呆れたように笑みを浮かべた愛さんに、そうね、と菜月も微笑んで頷く。



菜月が料理を作っていた間、愛さんと交わした会話の中でも思ったことだが、菜月と愛さんはどことなく似ていた。
顔は同じ美人といえど対照的なように思えたが。


二人とも、無邪気で人を笑顔にする力があるのにも関わらず、いつもどこか儚げで、
その瞳の奥に悲しみや孤独を抱いているように感じさせる。




「龍、家近いの?」

全くの無神経または鈍感のように装って、口の中のものを飲み込みながら尋ねる。



「あそこのコンビニの上のアパートの最上階なの」


愛さんが言って、菜月が小さく頷く。すぐに景色が頭を駆け巡った。
アパート、というよりは小洒落た小さめのマンション、といったような印象の建物だ。

明るい茶髪と彼の年齢を思いだし、心の中で首を捻った。



「あの歳で最上階の角部屋なんて生意気よねー」

首を傾げて菜月に同意を求めた彼女に、菜月は大きく賛成するように頷いた。




「でも、売れてるらしいからね」

自分に言い聞かせるように言った菜月に、愛さんもそうねーと軽く二度頭を振る。



前にも菜月から聞いたことがあった。龍は有名なカメラマンに目を付けられ、その才能を買われたのだと。
事実、幾つかのその手の著名な雑誌にも何度か取り上げられているらしい。

俺はまだ、彼の写真を見たことはなかったが。




「愛さんは、何のお仕事を?」


オムライスは、大半姿を消していた。

真っ直ぐ目を見つめるのは何故か阻まれ、だが菜月を見て尋ねるわけにもいかず、
中途半端に彷徨わせた視線を彼女の綺麗に手入れされた爪先に留め、尋ねる。




「ただのOLよ」

苦笑した彼女だが、それでも仕事を好いていることがよく分かるような口調だった。



「これでもオフィスのマドンナなのよ」

「これでもなんて、失礼ね」


茶目っ気を混ぜた菜月同様、愛さんも片方の眉を吊り上げ笑いを含んで返す。


確かにこれでも、とは失礼だ。彼女を美人と呼ばなければ誰を美人と呼べるだろう。
それは無論、菜月に対してもいえることだが。




「智也君」


唐突に、菜月と会話を弾ませていた愛さんが俺の方に真っ直ぐ向き直り、
意志の強そうなその瞳を俺に向ける。




「菜月を、よろしくね」


ぐっと想いを押しこめるようにしっかりとした声で言った愛さんのその真剣な視線に、
俺は一瞬どうしたらいいのかとたじろいだ。





"お前、菜月のこと好きか?"


不意にあの日俺にそう尋ねた、龍の痺れるほど真剣な声が脳裏に浮かぶ。



龍の声にも愛さんの声にも、重すぎるほどの何かが込められていた。
だけどそれ以上に、もっともっと深いものを感じ取らせた。言葉には乗せきれなかった、溢れるほどの何か。


脳を支配する色々な感情を乱暴に掴み抹消する。




「はい」

真っ直ぐに愛さんの強い瞳を見つめ返し、しっかりと頷く。




これ以上にないほど、胸の奥が痺れていることに気付いたが、
俺にはどうすることもできなかった。






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