俺と彼女と…
11


コンコンコンコン、と規則正しく、小さな何かがぶつかり合う音に、俺はゆっくりと瞼を開ける。
大きく息を吸い込んだ瞬間、鼻から入り込んできた甘い匂いに、眉を寄せた。


ぼやけたままの視界の中、薄暗い部屋に差し込む僅かな光に目を向ける。
カーテンは何故か薄いピンク色の重たいカーテンだった。



慌てて上半身を起こし、辺りを見回す。可愛らしい、女の子の部屋だった。

はっと気付き、床を見下ろす。綺麗に整えられた布団には、菜月の"な"の字も見つけられなかった。
浅く息を吐き出し、ベッドから抜け出す。




昨夜、龍たちも含めてテニスをやり、大騒ぎした後で龍が寝て。
三人がかりでソファに寝かせ、愛さんは仕事が残っているから、と帰って行ったが、
俺は流れでここに泊まることになった。


俺は最初、彼女が来客用に用意してあった布団で眠ろうと思っていたが、彼女がどうしても譲らず、
結果じゃんけんになり、俺が負けたために、彼女のベッドで眠らされる羽目になったのだ。





リビングに置かれたソファに、収まりきらないほどの大きさの龍が、
足と頭を突き出して気持ち良さそうに寝ていた。


それを一瞥した俺は、黙って音のするキッチンへと向かう。





「おはよ」

絶えることなく包丁で何かを刻み続けている菜月の背中に、声をかける。



「おはよう」

ぱっと振り返った菜月は、天使のように可愛らしい笑顔を浮かべた。




「早いな、朝」

リビングの壁にかけてある時計に目を遣る。まだ六時を回ったばかりだ。




「うん、なんか目が覚めちゃって」


少し切なそうに目を細めた菜月に、若干眉を寄せる。
単に布団だから眠れなかった、というような表情ではない。




「平気?」


儚げな彼女に、心配になって尋ねた。何が? と笑った菜月の目を見つめる。
やっぱりそこには、俺には到底計り知れない何かが潜んでいるような気がした。





「龍、起こしてきてくれる?」


まな板の上に置かれていた野菜類は、全て切って三つの皿に並べられていた。
朝食の準備が出来たのだろう。分かった、と頷き、台所を出た。







まるで子供のような顔で寝息を立てている龍の横に、腰を下ろす。
無言で、その肩を掴み左右に振った。反応は全くない。




「龍、朝……」


肩を掴んだまま言った俺は、突然物凄い力でその手首を握りしめられ、言葉を止める。
右手で、龍の肩を掴む俺の左手首をきつく握りしめた龍は、きゅっと苦しそうに眉間に皺を寄せた。






「仁……」

目をきつく閉じたまま、険しい顔で唸るように口にした龍に、俺は眉を寄せる。




「仁……っ」


さっきよりも大きく、そしてはっきりと言った龍は、
まるで救いを求めるかのように更に俺の腕を強く握った。





「おい、起きろって」


反対の手で、龍の頬を少し強めに叩く。眉を思い切り顰めて、龍が唸り声を上げる。
ふっと一気に腕に込められていた力が抜け、龍の顔が安らかな物に変わった。




「んー」


拳が入りそうなほど口を開けて、龍が薄らと目を開く。
いつのまにか、右腕は完全に解放されていた。




「おー、智也」

未だ眠そうな声でのんびりと言った龍は、ゆっくりと上体を起こす。





「おはよ」

寝ぐせのついた龍の明るい茶髪を見て、苦笑を漏らしつつ言う。



「おあよ」


大口を開けて欠伸をしながら、何とも間の抜けた声を出した龍は、俺の方を見てにっと笑みを浮かべる。
そして自分の上に無造作にかけられていた布団を剥いで、立ち上がった。俺もそれに合わせて立ち上がる。




「ご飯だよー」


菜月が、料理を盛った皿を両手に、笑顔で俺たちに声をかける。
俺は笑みを浮かべ、テーブルの前にしゃがみ込んだ。



当然のように龍は菜月の隣に回り込み、その横に腰を下ろす。きゅっと小さく眉を寄せた。





「いただきまぁーす」

未だに虚ろな表情で言った龍に合わせて、俺も手を合わせる。



朝食は食パンにグリーンサラダ、スクランブルエッグにトマトのマリネと言った、極一般的なものだったが、
どれもとても美味しく感じられた。


それは純粋な、味覚的なものだったのか、彼女の元で食べるから、という若干不純な理由からのもの
だったのかは、俺には正直分からなかったが。





「二人は今日も学校?」

レタスを口に無理やり詰め込もうとしながら、龍は俺に目を向ける。



「うん。十一時半までだけど」

龍に答えてから、菜月に視線を移す。



「私は四時半までだけど……お昼は空いてるから、学食で落ち合わない?」

菜月が、その可愛らしい目をくるりと動かし、笑顔を浮かべる。俺も笑みを浮かべて、頷いた。




「いいなー、いいなー」


フォークを加えて、持ち手を下に引っ張り、まるで昼ドラで女がハンカチを噛むシーンのようにして、
身体を揺すり俺を恨みがましそうに見つめる。




「龍も彼女作ればいいでしょ」

呆れたように笑った菜月を、龍はフォークを加えたままの唇を突き出して、じっと見る。




「またそういう酷いこと言ってさっ」

拗ねたような口調で言った龍は、口からフォークを離し、レタスの山に突き刺す。





「俺が彼女作れないの知ってるくせに」


先程と大して変わらない口調で言った龍に、俺はすぐさま突っ込もうとした。
だが、一瞬息を止めて苦しそうに顔を歪めた菜月の表情を目にした途端、全ての言葉が消える。



黙々とレタスを頬張り続けている龍には、どうしてか、なんて尋ねることはできなかった。












「どうも胡散臭い話だよな」


ノートや参考書を掻き集めている俺を余所に、武人はさっさと支度を済ませ、
もうショルダーバッグを肩に掛け始めている。




「何の話だよ」


もう何年もの付き合いがあれば、いい加減こいつの話の飛躍や唐突さにも慣れたが、
相変わらずついていける気はしない。




「だから、その龍って奴のことだよ」


頭痛がした。
今日は珍しく真面目に教授の話を聞いてるな、と思っていたら、そんなことを考えていたとは。


講義が始まる前、いい加減ストレスも溜まっていたからか、自分でも訳が分からないうちに
勝手に口が暴走していて。こっちは突発的に言ってしまったというのに、変なところでこいつは律儀だ。





「俺も妹いるけど、ウィーなんて高額な物とても買ってやる気にはなれねぇし、
二つ三つ程度離れてる兄妹の仲なんて最悪だぞ?」


全てを鞄に詰め込んだ俺の前に、妙に熱くなった武人が立ちはだかっていたが、
テンションがかなり上がっているこいつは、通行の邪魔になっていることにすら気付かないだろう。




「大体、合鍵持ってるってことだろ? それって」


眉を寄せて尋ねた武人に、俺は顔を顰めため息をつく。一番触れてほしくないことだった。



あの兄妹には謎がありすぎる。
だけどどの謎も、仲が良いから、だけで済まされてしまうようなことに思えた。

だが一つ、どうしても引っかかるのは、鍵だ。




「そうだな」

「ありえねぇって」


思考を休止させて力なく言った俺に、武人が力説する。
だがいくら否定されたって、事実は事実だ。




「でもいいんだよ。俺、何だかんだ、今楽しいし」


武人の相手をするのも疲れたし、それも嘘ではなかった。
武人の肩を押し、道から外れさせて横を通り過ぎる。

武人は尚も何か言いたそうだったが、それに気付かないふりをした。






俺も、感情を全て素直にさらけ出したら、認めたくはないが、今の奴と同じようなことを言うのだろう。


だが絶対にそんなことはしたくなかった。
何故なら、菜月との今の生活を壊したくなかったから。



そしてきっと彼女だって、そんなことを責め立てられることなんて、望んではいないはずだから。






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