俺と彼女と…
12


「あっれー」


後ろから突然聞こえてきた、やたらテンションの高い武人の声に、
俺は眉を寄せながら俯きがちに振り返る。




「春奈ちゃんじゃんっ」


満面の笑みを浮かべて言った武人に、俺は目を丸くして焦りつつ前を見た。
そこには、腕を組んで講堂の大きな柱に寄りかかる、どこかつんとした女の姿。

俺らの後ろにもう人影はない。ぐっと全身に力を入れる。





「どしたの? 俺ら待ってた系?」


目を輝かせた、いかにも尻尾を振ってそうな武人が、俺を追い越して春奈に駆け寄る。
武人に大した反応も示さず、春奈は真っ直ぐに俺を見据えた。




「ごめん、ちょっと智也と二人で話させて」

俺に話すときよりは幾分柔らかな口調で言った春奈に、武人は眉を上げる。




「分かった。俺、学食で待ってるわ」


嫌な雰囲気を全く感じさせない、物分かりの良い口調で俺と春奈に言った武人に、
悪いな、と俺は口だけで言う。へらっと笑った武人は、そのまま学食の方へと歩いて行った。







話が出来るのに適切な距離とは思わなかったが、これ以上近寄ることに本能的な危険を感じ、
俺は彼女から三メートルほど離れたところに立ちつくしていた。





「それで、話っていうのは?」


俺から目を逸らし、冷たい表情で遠くを見つめていた春奈の横顔に尋ねる。
菜月の笑顔が、頭の中にいっぱいに映し出されていた。





「会ったんでしょ、龍と」

視線を俺に移すことなく、冷たく春奈が言い放つ。彼女は既に答えを知っていた。



「会ったけど」

彼女が求めているのは、その先の言葉だと知っていながら、平然と答える。




「諦める気になった?」

ようやく、春奈は俺の方を見た。その恐ろしく真っ直ぐな強い眼差しに、俺は一瞬たじろぐ。



「何でその必要があるわけ?」

必死に言い放たれた言葉の意味を探ったが、それは全く見当もつかなかった。





「……やっぱり、何も気付かないのね」

冷たい表情で言った春奈は、静かに視線を逸らす。意味深すぎる言葉だった。


俺が気付くべき何かが、気付いたら諦めるような気になるような何かがあるのか。
そんなの、知りたくもなかった。




「何の話?」

眉を寄せて尋ねた。耳を塞ぎたい気持ちとは反して、口は勝手に動く。


長く、俯いた春奈が息を吐き出した。
顔を上げ、俺の目を真っ直ぐに見つめた春奈の瞳に、息をのむ。






「あなたと菜月は、絶対に上手くはいかない。……あなたは、必ず後悔する日が来る」


恐ろしいほどに強い確信のこもった言葉。眉を寄せる力さえ、全て奪われた。




「何を根拠に……意味分かんねえよ」


吐き出した言葉は、情けないことに震えていた。
きゅっと、何か嫌なことでも思い出したかのように眉を顰めた春奈は、再度息をつく。





「あなたは、その意味を知ってしまう前に菜月から離れるべきよ」


静かに言った春奈は、俺の目を真っ直ぐに見詰める。


因縁をつけてるわけでも、適当なことを言っているわけでもなさそうだった。
何か確固たる未来を見据え、危惧しているかのような……。




「何故君にそこまで干渉されなきゃならないのか、分からないな。そんなの、俺と菜月の問題だろ?」


抗議した声さえも、泣きたくなるほど弱弱しくて。瞬間、春奈の瞳が曇る。
彼女は口を噤んだ。沈黙の間に風だけが流れる。






「……菜月のことが、大事だから」

苦しそうに眉間に皺を寄せて、絞り出すように口にした春奈に、目を見張る。予想外の言葉だった。





「これ以上先に進んだとき、傷つくのはあなたじゃない」

顔を上げて俺を見た春奈の目の縁が、見逃すほど僅かに赤く染まっているのを見た。




「誰よりも傷つくのは、菜月と……菜月の、一番大切な人だから」

一瞬、揺れるように春奈の声が弱さを見せる。頭を、石で殴られたような衝撃が襲った。





「あの子が傷つくところなんて、もう二度と見たくないの」


強く言いきって、俺を睨みつけるように見つめる。ぐっと唾をのんだ。


かつり、とヒールを鳴らし、春奈は俺に一歩近づく。
さっきより近くで見つめた春奈の顔は、もういつもの冷血なものに戻っていた。





「だからもう、菜月から離れてあげて」


俺を真っ直ぐに見上げた春奈は、ぱっと身を翻し、そのままつかつかと去って行った。
俺はその背中を見つめ口を僅かに開けたまま、その場で放心したように立ち尽くしていた。












地面を見つめながら、重い足取りで騒がしい建物に入った。


力なくため息をつき、しばらく人の列に並んでからいつもの定食を頼む。
需要が高いからか、一分もしないうちにプレートが出てきた。

それを手にカウンターから離れ、広い学食内をぐるりと見回した。



挙げられた、冬なのに何故か健康的に焼けた手が目に留まる。
人懐っこい笑みを浮かべた武人の向かいに、微笑んだ菜月の姿を見つけた。





「遅かったな、教授に質問できたか?」

八重歯を見せて笑いながら言った武人の横に、眉を寄せながら腰かける。
瞬間、奴の言葉の意味を悟った。




「あぁ、何とか」

軽く頷いて、菜月の横に視線を移す。
そこに座っているはずの女の姿が、どこにも見当たらなかった。





「春奈は?」

なるべく自然に、と細心の注意を払って、遠慮がちに尋ねる。
カレーを頬張っていた菜月が、そのくるりと大きな瞳で俺を捉えた。



「んー、図書館で借りたい本あるからって、ここに来る前に別れたけど」


目を見開きそうになって、瞬間顔に力を込めて表情を消す。
せっかく、いつもは全く気の利かない武人が売ってくれた恩だ。無駄にするわけにはいかない。




「どうして?」


大して疑った風でもなく、笑みを浮かべながら尋ねた菜月に、内心ひやりとした。
だが単純なことだ。いつもくっついている二つが離れていれば、誰だって疑問に思うはずなのだから。




「いや、いつも一緒にいるから、今日は一緒じゃないのかと思っただけ」

苦笑を浮かべながらへらっと言った俺に、菜月は何も気に留めない風に、そう、と頷く。




「お水取ってくるね」


自分の空のコップを手に、明るく言った菜月に頷く。
ぱっと立ち上がった菜月は、周りの男たちの視線を集めながら給水機に向かって歩いて行った。






「何だって? 彼女」


静かに、落ち着いた声で尋ねた武人に、俺は奴の顔を見る。
菜月の背中に視線を張り付けた武人は、珍しく酷く真面目な表情をしていた。




「マジな話だったんだろ?」


視線を俺の方へ動かし、からかう風でもなく尋ねる。

思わず目を逸らす。今は誰の目も、真っ直ぐに見る気にはなれなかった。





「……言いたくない」

小さく、絞り出すように口にした俺は、コップを手に取り一気に水を呷った。





口に出したら現実になりそうだとか、口に出したら認めるみたいで嫌だとか、そんなことじゃない。
ただ、怖かった。



彼女の言いたい事が何なのか、何を根拠にあんな強い確信を持っているのか、
そんなこと、俺には少しだって分からない。

だけど、心のどこかで、感付いていたから。自分じゃないと、分かっていたから。


春奈に言われた言葉に、反論することなんて容易にできたはずなのに、
俺は何も言い返すことができなかった。



それどころか、納得したんだ。正しい答えを、やっと得られたときのように。






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