俺と彼女と…
14


いつも通りの道。
足音を二つ鳴らして、スーパー袋の軽やかな音を聞きながら歩く。


こんな日々もいずれは終わるのか、と意味もなく虚しい未来予想図が、突然俺の頭に浮かんだ。



階段を、彼女が上がっていく。その足取りは、別に重いものでも何でもなくて。
心の中に温かい安心感が広がった。




階段を昇り終えてすぐ、不意に彼女の足が止まる。
俺が止まり慣れた場所より、少し手前だった。怪訝に思いつつ顔を上げる。


瞬間、目を見張った。
春奈と見知らぬ男が、彼女の部屋の前に立っていたのだ。





「春奈……、祐介……」


つんとした表情で立っていた春奈が、ぱっとこちらを向く。
俺の姿を視界に収めた瞬間、あからさまに眉を顰めた。


彼女の隣に立っていた、祐介と呼ばれた茶髪の子犬のような顔立ちの男は、
顔を上げ俺を見た瞬間、目を丸くする。

ばつが悪そうに、春奈は歪めた顔で彼を見上げた。




「幼なじみ」


小さな声で言った菜月は、窺うように俺を見上げる。
そう、とそれ以上の反応もしようがなくて曖昧に頷いた。




「えっ……と、友達。大学の」


ぎこちなく途切れ途切れに言った菜月に、俺は顔を顰めようとしたが、
祐介の顔が大きく歪められたのを見て、そっちにすっかり気を取られた。




「は、何……」


丸い目を左右に忙しなく動かした彼は、最終的に救いを求めるように
すぐ傍の春奈に視線を移した。春奈は、黙って足元に視線を落とす。


菜月に視線を向けると、彼女もまた同様に困ったように眉を寄せて俯いていた。





「……龍は? 知ってんの、このこと」


突然出てきた龍、の名前に、俺は片方の眉を吊り上げる。

怖いくらいに冷たく、睨みつけるように菜月を見つめる祐介に、
菜月は泣きそうな表情で更に顔を俯け、小さくうん、と頷く。


眉を顰めた祐介は、酷く苛立たしそうに息を吐き出した。




流れた沈黙がもたらす、この重い空気のわけも、泣きそうな菜月の頭に浮かぶ想いも、
俺には何も分からなくて。





「……祐介」


不安の滲み出た声で、縋るように呼び掛けた菜月に何も答えず、
祐介は乱暴に右手で髪を掴むように掻き上げた。




「お前、龍たちの気持ち、考えてんのかよ」


ため息と共に吐き出された言葉に、俺はきゅっと眉を顰める。
龍の名前の意味は相も変わらず分からなかったが、複数形になった意味はより一層分からなかった。



「考えてるよ」

眉を寄せて絞り出すように震える声で言った菜月は、潤んだ大きな瞳で窺うように祐介を見つめる。




「だったら何でこんなことできるわけ?」


乱暴に息を吐き出し、荒く言った祐介は、一度俺を強く睨んだ後菜月に再び視線を戻す。
祐介、と咎めるように言った春奈が彼の腕に触れた。




「やめなよ、この人の前で……」


最大限の皮肉を込めて強く言った春奈は、軽蔑の色を含んだような、強く冷たい視線を俺に突き刺す。
無条件にたじろぎそうになって、ぐっと顎に力を込めた。





「……帰るぞ」


俺と菜月を睨みながら、険しい表情で言った祐介は、俺たちの方に向かって歩いてくる。
え? と悲しそうに発せられた声に、祐介は俺たちのすぐ横で立ち止まった。




「何か、話あったんじゃ……」

「別に」


憂いを帯びた声で尋ねた菜月の声を、冷たく遮った祐介は、ちらりと菜月に視線を向ける。




「夜、電話する」

小さく言った祐介は、後は俺らの方を一度も見ずに階段を下りていった。




戸惑ったように立ち尽くしていた春奈も、菜月の方に向かって歩いてくる。
ぴたり、と丁度菜月の目の前で足を止めた。




「ごめん、けど……今は私、菜月の味方できないから」


眉を寄せ切なげな色をはっきりと瞳に浮かべながらも強く言った春奈に、
菜月は黙って口を結び、視線を下に落とした。


俺を一度睨んだ春奈は、俺らを通り過ぎて去っていく。
背後から、ヒールの音が遠ざかって行くのが聞こえた。




黙ったまま俯く菜月の頭に視線を落とす。
若干伏せられたその瞳の色は、やっぱり見ることはできなかった。












風呂上がりの体がまだ若干湿っていて。
その冷たさと、自分を包むトレーナーの温かさの差異が、より一層眠気を高めた。


ぼやけた視界の中で、不意に嫌な記憶が蘇りそうになり、
俺は目を擦ってその記憶を追い出した。



「はい」


そっと隣に腰を下ろした菜月は、俺にココアの入ったマグカップを手渡す。
俺より先に風呂に入った菜月からは、まだほんのりと暖気が感じられた。





「二人はね」


そっと、呟くように切り出した菜月に、俺はカップに口を付けたまま彼女を見る。

一瞬で、春奈と祐介のことだと嫌でも気付かされた。
夕飯を作るのを手伝っている時、具体的なことは何も説明されないまま、
ごめんね、と一言でただ漠然と謝られたあとだ。




「幼なじみで、中学の時からずっと付き合ってるの」


カップをそっと両手で包みこんだ菜月は、柔らかく目を細める。
その瞳には、はっきりと切なげな色が浮かび上がっていた。



「高校も大学も違かったけど、いつも一緒だった」


真っ直ぐに前を見たまま、多分何かの記憶を脳裏に浮かべているのだろう。
菜月は優しい笑みを浮かべる。




「私ね、あの二人が羨ましいんだ」


情けない、とでも言うように明るく笑った菜月の表情は、どこか儚げで。
その声も、若干震えているようにも思えた。

胸の奥が、締め付けられるように痛くて、呼吸が苦しくなる。




「私も、好きな人と……智也と、ずっと一緒にいられたらいいのに」


今度は、語尾が明らかに震えて。彼女の顔が泣きそうに歪められた。


全ての躊躇いを無理やり捨て、カップをそっとテーブルに置いた俺は、
横から彼女の肩に腕を回し、支えるように抱き締める。

彼女は温かかったが、彼女の髪は水滴のせいですっかり冷えていた。





「俺は、傍にいるよ。ずっと、菜月の傍にいる」


静かに、だけどはっきりと俺は、菜月に言い聞かせるように言う。
ただ彼女のその見えない闇を、正体の掴めない何かを、たった一瞬でもいいから拭い去りたかった。



だけど本当は、菜月を試していたのかもしれない。


自分はここにいていいのかと、
本当に菜月が口にしたかった名前は、俺の名前なのかと、尋ねる代わりだったのかもしれない。






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