俺と彼女と…
15


突然ふと、目が覚めた。
真っ暗なはずの室内は、薄暗いけど家具の形がはっきりと浮かび上がるほどで。


隣の温もりが、消えていることに気付いた。そっと、音を立てないようにゆっくり身体を起こす。
枕元の時計は二時を指していた。



鼻を啜る音が響いて。俺はぱっとリビングに目を向ける。
小さな明かりの元に、菜月の背中があった。





「祐介の言いたい事は分かるよ。龍だって多分……そう思ってる」


か細い声で呟くように口にする菜月の声は、はっきりと分かるほどに震えていた。
心臓の一部が、急激に縮小した気がした。



「でも、私だって楽しい思い出もっと作りたいって、幸せになりたいって、そう思うの、
いけないことなのかなぁ……?」


また、鼻を啜る音が聞こえた。



何も分からない。彼女と龍、そして祐介たちとの間に何が起こったのか。
今彼女がどんな気持ちで涙を流しているのか。

彼女の心の中に住んでいるのは、一体誰なのか。



だけど一つ分かることがある。
彼女は、俺との未来を望んでいる。必死に幸せを、掴もうとしている。


布団の上で、ぐっと拳を握りしめた。



「私だって、このままずっと前に進めないままなんて嫌だから……」


呼吸が徐々に浅くなっていく。眉を寄せ、そっと身体を元の位置に倒した。
少しひんやりとした枕に、顔を埋める。




彼女は謎のベールに包まれていて、隠されれば隠されるほど、気になって仕方なくて。
不安ばかりが募っていた。

不安はいつの間にか不信に変わって。彼女のことが、見えなくなっていた。


周りがどう言ったって、彼女にどんな秘密があったって、彼女は彼女で。
俺の傍で笑っていて、いつも俺を気遣ってくれて、俺を好きだと言ってくれる。

その彼女を、俺は愛しているはずなのに。












もぞり、と非常に身体に近い場所で何かが動いた感触がして。俺は重い腕を動かして目を擦る。

眩い光の中で、白く柔らかそうな背中を見つけた。その背中は、いつもより小さく見えて。
消えてしまいそうな、不思議なほど根拠の薄い恐怖。


俺は、腕だけを使って中途半端に身体を起こす。
裸の胸元でしっかりと布団を押さえながら、菜月が小さく振り返り、目を細めて笑みを浮かべた。



「おはよ」

優しく言った菜月に、心が温まるのを感じながらおはよ、と小さく笑みを浮かべて返す。



「今、何時?」

突き刺すように、だけど何故か柔らかく感じられる陽の光に目を細めながら、尋ねる。



「もう九時だよ。今から朝食作るね」


困ったように笑った菜月は、身体を動かして布団から抜け出ようとする。
その細い腕を掴み再びベッドの上に押し倒し、彼女の上に跨った。


目を丸くして俺を見上げている菜月の表情を見て、我に返る。

思わず行動に移してしまったものの、痛くはなかっただろうかとか、
あとになって小さなことを一から思い浮かべて。


だけど頭を一度小さく振って、全ての考えを頭から追い出し、
目の前の菜月のことだけを頭に居座らせる。




「後でいい」


低く呟いた俺は、両腕で彼女の頭をそっと挟み込み、柔らかく甘いその唇にキスを落とす。
貪欲に彼女を求める気持ちを、そのまま唇に乗せた。

彼女の温かい口内を味わっている時、そっと自分の胸元に触れた温かい感触に、俺は唇を離す。




「どうしたの、智也」


赤く紅潮した頬、少し乱れた息が吐き出される潤った唇、熱く潤んだ瞳に思考の全てを
持って行かれそうになったが、慌てて引き戻して質問の意味に僅かに眉を寄せる。



「ん? 何が?」

一瞬乱れた呼吸を整えながら、彼女の言っている言葉の意味が全く分からずに眉を上げて尋ねる。




「何か、いつもと違うから……」


僅かに首を傾げて困ったように笑った菜月は、俺をじっと見つめる。
ビー玉のように透き通った瞳。俺は今までの自分を激しく罵った。



「別に、何でもないよ」


心の中の闘争をよそに、俺は出来るだけ柔らかく答える。



菜月が何をしたわけでも、俺に何があったわけでもない。
ただ今まで、彼女を疑うばかりだった俺がどうかしてた。そのことに今更気付かされたのだ。












「で、どんなだった?」


ずっと黙って蕎麦を啜りながら俺の話を聞いていた……もとい、聞いているのかどうなのか
よく分からなかった武人が、ようやく顔を上げて俺に好奇心で溢れた視線を向ける。



「何が」


目を細めて顔を顰め、ため息と共に突き返す。
こいつは取りあえずコミュニケーション能力と国語力を幼稚園レベルから学びなおした方が良さそうだ。




「だからぁ、春奈ちゃんの男!」


箸を振り回しながら言った武人を、武人の隣に偶然腰かけていた気の弱そうな男がちらりと見た。



「お前なぁ……」


言い返そうとして、諦める。

こいつに上手い聞き手役の相槌や的確なアドバイスを求める方がどうかしてる。
俺だって端からそんな期待はしてない。




「だって相手がイケメンじゃなかったら悔しいだろーが」


唇を尖らせた武人は、抑揚を付けて大袈裟に言ってみせる。


祐介は確かに整った顔立ちの男だったが、イケメンとは程遠く、
むしろ写メに撮って合コンで女に見せたら喜ばれそうな小型犬……言い過ぎだけど、そんな感じ。






「……お前、菜月ちゃんのこと好きなんだろ?」


ふざけた空気を一気に消し去り、静かに確認するかのように言った武人に、俺は一瞬眉を寄せる。



「当たり前だろ」

問われる以前の問題だ。好きじゃなければこうして悶々と悩むこともない。




「じゃあ、何にも考えずに好きでいるってのもいーんじゃねえの?」


柔らかく、俺を気遣うように見つめながら言った武人に、俺は少し気持ちを穏やかにする。



こいつはいつも、自分の思ったようにしか恋愛をしない。
良い方向にも悪い方向にも考え方が一直線だ。

色んな事を考え過ぎてどんどん自分も相手も見失っていくような今の俺の恋愛とは、全く正反対。




「ま、それができれば苦労しないんだろうけど」


しょうがねえな、とでも言うように武人は豪快に笑った。



俺には武人のような恋愛はできない。

だけど真っ直ぐに菜月を愛すことだけを見つめることができたなら、
自分の首を絞めることもなくなるんだろうな、と思った。






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