俺と彼女と…
16


「今日菜月ちゃんはー?」


たまたま隣に腰かけた顔の良い女の子に意味もなく笑顔を向けながら、武人は力の抜けた声で尋ねる。



「もうすぐ来ると思うけど」


その笑顔に、呆れのため息を吐きながら返す。


約束をしていてもしていなくても、俺がこの時間に学食に来ることを知っている菜月は、
春奈を引きつれていても一人だったとしても、大抵ここにやってくる。



今日は特に約束もしていないけど、恐らく彼女はやってくるだろう。
漠然と考えながら、蕎麦をすする。

何事も深く考えないこと。それが今の俺にできる、俺が楽になれる、
菜月を真っ直ぐに愛するための数少ない方法の一つだと思うから。




「智也」


可愛らしい少し弾んだ声がすぐ横で聞こえて。
俺は口を動かしながら顔を上げ、菜月の笑顔を確認する。


と、その瞬間違和感に若干眉を寄せた。腰かけた菜月の顔を、ぐっと力を込めて見つめる。





「目……」


もう一度彼女の瞳をしっかりと見つめ確認してから、口に出す。
俺の中の疑問は、目をぱっと大きく開いた菜月のその仕草によって、余計に膨らんだ。



「赤いけど」


少し茶色い瞳の周りは、明らかに真っ赤に充血している。


あ、と小さく声を上げた菜月は恥ずかしそうにはにかんで、目の辺りに手を当てた。
すっと、胸の奥を何かもやもやした黒いものが通り過ぎた気がした。



「龍と、朝まで呑んじゃって」


思わずきゅっと眉を寄せそうになって、眉間に力を込める。
それから彼女の目を、もう一度真っ直ぐに見た。



「酒?」


顔面に僅かな違和感を感じながらも、自然を装って尋ねる。



「うん」

菜月は平然と答える。



どくり、と心臓が波打った。


龍が菜月の部屋に酒を持って入って来た、その時から胸に引っかかっていた。
だけど何かの間違いなのだと、そう思いたかった。


二度目に会った時、酒を呑ませないでくれと頼んだ龍。
あの時、龍が嘘をついているようにはどうして思えなかったから。



ふと、眉を寄せてよく思い返す。
あの時龍は、軽い口調だったが、間違いなく痛いくらい真剣な瞳をしていた。


何かを、隠していた……?



はっと我に返り、今の状況へと思考を戻す。
分かり切ったことを尋ねた上に黙り込んだ俺に、菜月はくるり、と疑問の色のこもった目を向けていた。




「いや……龍に付き合うの大変じゃないかなって」


誤魔化すような自分の口調に、我ながら情けなくも感じたが、さらりとそれを流した。



「んー、結構疲れるよ。テンション高いし」


呆れたように苦笑した菜月の口元に、可愛らしい八重歯が覗く。


彼女のものなのか、龍のものなのか分からない嘘も、何もかも全て頭の隅に押しやり、
龍のハイテンションを思い返す。


酷く一方的で、思い込みが激しくて、意味の分からないことで突然切れ始めて、
無条件に人に笑顔を押しつける。




「昔からああなの?」


笑顔を浮かべながら尋ねる。



「うん、ずっとね。常にハイテンションだし、喧嘩っ早いし、口より先に手が出ちゃうし。
……本当、昔から困ってるの、龍には」


呆れたように眉を上げて笑った菜月だけど、その瞳は明らかに嬉しそうで。
色々言ってもやっぱり兄妹は兄妹だ。大切に想い合ってるのが伝わってくる。




「そういえば昔、智也食感と感触の区別がつかなかったんだぜ」


へへっと馬鹿にするように笑いながら、突然会話に入ってきた武人に、俺は大きく眉を顰める。



「何の話だよ」

「え? 口と手の区別がつかない話」


何言ってんだお前、とでも言うように呆けた顔で言った武人は、
やっぱり馬鹿にするように俺を見る。



「誰もそんな話してねぇよ」


顔を顰めて大きくため息をつきながら、突き返す。
分かってないなぁ、とでも言いたげにその眉を上げた武人は、唇を曲げて俺を見返した。



最近こいつも良いこと言うようになった、と見直しかけていたのに、やっぱり武人は武人で、
最高に不愉快な存在に変わりはない。見直そうと試みた俺が馬鹿だった。




「武人君って、独特な感性してるよねー」


「だろ、だろ? さすが菜月ちゃん、分かってるねー」


楽しそうに目を細めて微笑んだ菜月に、武人は目をきらきら輝かせて食いつく。
不愉快極まりない。


こいつの場合の話の飛躍は、独特の感性だなんていう高貴なものじゃなく、ただ意味不明なだけだ。

考えなしに突然頭に思い浮かんだことをすぐに口にする。
人に対する気遣いや考慮なんて微塵も窺えない。



「ただとんちんかんなだけだろ」


眉根を寄せて、呆れを精一杯に表現しつつ言う。
武人が憎々しげに顔を歪めて、かっと目を開いて俺を睨みつけた。無自覚にも程がある。



「なんか二人共面白ーいっ。智也の突っ込み最高だし」


菜月が口元に手を当て、可愛らしくころころと笑う。
武人への蔑みで溢れていた気持ちが一気に和らぎ、心に春の風が流れる。



「何だよー。結局惚気に行き着くわけ?」


つまらなそうに、口元に笑みを浮かべながら武人が唇を尖らせる。

菜月は声を上げて笑った。菜月の肩の上で、身体の動きに合わせて綺麗な茶色の髪が揺れる。


俺はそれを、ただ何となく至福を胸に抱いて見つめていた。












「じゃあな」


校門の前で、武人が手を上げる。
俺は無言で手を上げ返し、帰路へと向かおうとした。瞬間、足を止め目を見張る。



真っ直ぐに俺の視界に入った茶髪の子犬、祐介は、俺を見て無表情のまま小さく頭を下げる。
会釈を返そうとしたが、身体は金縛りにあったかのように動かなかった。


たった一度顔を合わせただけなのに、俺の心に生まれた祐介に対する警戒心を、
俺ははっきりと胸に感じていた。



動かぬままの俺に、祐介は会話ができる程度の距離まで歩み寄る。




「あんたに、言っておきたい事があって」


無表情のまま言った祐介の口から出た白い息は、そのまま俺の心の霧へと変わった。
不安と若干の恐怖に、胸がざわつく。



「昨日、菜月と話した」


電話のことを指しているのだろう。俺はとりあえず黙って頷く。



「菜月もお前も、軽い気持ちじゃないなら、俺はもう反対しない。
あいつには、幸せになってもらいたいって思うし」


真っ直ぐに俺を見た祐介に、それが彼の本心からの言葉だと知る。




「だけど、一つ言っとく」


祐介の瞳が、一瞬陰りを見せたのを見て、俺はぐっと奥歯を噛み締めた。



「あいつには、誰より大切な男がいる。……それは、お前じゃない」


息を止めた。あまりに真っ直ぐな強い瞳に。
今まで温まっていた心の中に、凍てつきそうに冷たい風が吹き込む。耳鳴りがしていた。




「それが誰だか分かった時、お前が菜月から離れないとは、俺にはどうしても思えないんだ」


視線をずらし、息苦しそうに息を吐き出した祐介は、苦痛に耐えるように眉根を寄せる。




「だから、応援はできない」

震える息を吐き出した祐介は、ゆっくりと一歩後ずさる。



「じゃ、それだけだから」

踵を返したその頭が遠ざかっていきそうな気配を見せ、俺は激しく動揺しつつも拳を握る。




「待てよ!」


思わず発した言葉は、ボリュームの調節が全く利いていなかった。
静かに、祐介が眉を上げて振り返る。


春奈の瞳にはっきりと浮かんでいるような敵意は、そこには窺えなかった。




「……それは、龍?」


ただ一人の男の名を口に出すだけなのに、背筋が固くなり、唇が激しく震える。

頭の中を、龍の笑顔や悲しげな表情、龍を見つめる菜月の切なげな瞳、その全てが一気に駆け巡る。


長く、祐介の口から白い息が吐き出された。




「……それは、俺の口からは答えられない」


静かに、視線を落として言った祐介は、そのまま俺に背を向ける。






頭の中に色々なことが浮かび過ぎて、額が酷く痛んだ。


春奈が口にした、菜月にとって一番大切な人。そして祐介が言った、誰よりも大切な男。
考えるだけで、胸が抉られたように痛みだし、呼吸が苦しくなる。



菜月は、俺が好きだと、ずっと一緒にいたいと言ってくれた。
そしていつも俺に、真っ直ぐな笑顔を向けてくれる。それが嘘偽りだなんて、到底思えない。




だけど、たくさんの謎が多すぎて、どうしても真っ直ぐに信じることができない。
一番に信じたい人を、疑わざるを得なくなってしまう。

そこにあるのは、自分の感情に対する途轍もない恐怖だった。




ぐっと眉を寄せて目を瞑り、震える息を吐き出した。






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