俺と彼女と…
17
周りのどんな風景を見ても、思わずため息が零れて。
綺麗な花も、楽しそうな学生たちも、全てが色あせて見える。
膝には未だに力が入らなくて。俯きながら角を曲がり、アパートの階段を昇り始める。
上げる足、一歩一歩があまりにも重すぎて、また重いため息をつく。
「もうやめてっ!」
突然、悲痛な叫び声が空気を引き裂いた。はっと息をのみ、早足で階段を上る。
それは間違いなく、菜月の声だった。聞いた事のない、悲鳴のような声。
だけど、分からないはずがない。胸の奥が激しく騒いだ。
「……三上の顔なんて、見たくなかった……っ」
苦しげに絞り出される、震えた声を聞きながら、俺は更に足を速める。
廊下の一番向こう、菜月の部屋の前に、スーツを着た黒髪の男が立っているのが見えた。
俺が階段を昇りきると同時に、深く俯いていた菜月の顔から、雫が数粒、落ちていくのが見え、
俺は目を見張り息をのむ。
「なつ……」
悲痛な響きを帯びた男の少し掠れた低音に、胸に強い痛みを感じる。
気遣わしそうにそっと菜月に歩み寄った男は、玄関から見えている菜月の肩に手をかけた。
菜月の震える肩に触れるその手に、心が引き裂かれたように痛んだ。
奥歯をぐっと噛み締め、視線を少し落としながらも、重い足を引きずるように俺は俺の部屋へと向かう。
スニーカーとコンクリートの地面が、若干音を立てた。
はっと音がするほど大きく、俺ではない誰かが息を吸ったのに気付き、
俺は気まずい思いに駆られながらも顔を上げる。
菜月の、真っ赤に潤んだその瞳が、俺をしっかりと捉えていた。
「……いいから、もう帰って」
菜月は俺から目を逸らし、傍に歩み寄っていた男の胸を思い切り押し返す。
瞬間、二人の間を何か白い封筒のようなものが落ちていくのが見えた。
ぱさり、と落ちたそれに、男は眉を辛そうに歪めて俯く。
怪訝に思い、地面の上の白い封筒に目を向けた瞬間、俺ははっと大きく喘いだ。
白い封筒の口から、乱雑に飛び出したものは、見間違えるはずもない。
数十枚の万札だった。
「……また、来るから」
ゆっくりと沈んだ動きでそれを拾い上げた男は、悲しげな表情を残し、俺の方へと向かって歩いてくる。
黙って道をあけた俺は、無意識のうちに、目の前を俯いて通り過ぎていく男に視線を張り付けた。
大体、龍と同じくらいの歳のように見えるけど、スーツを着込んでいるからか、
龍よりも大人な雰囲気にも見える。痩せていて、少し疲れた感じのする男だ。
階段を下り、徐々に見えなくなっていく背中から逃げるように目を逸らし、菜月の方を窺い見る。
瞬間、菜月がふらつき倒れるように崩れていくのを見て、俺は急いで駆け寄り、
菜月の身体に手を回して支えた。
「……大丈夫か?」
俺の胸の中で、真っ青な顔でぐったりとしている菜月に、そっと遠慮がちに尋ねる。
菜月は黙ったまま、ゆっくりと小さく頷いた。
大丈夫じゃないことなんて、明白で。
だけどその理由も何もかも、俺には分からない。俺だけが、何一つとして分からない。
「何か、あったのか?」
聞いてはいけない事だろうと察していても、震えを押さえながら尋ねる。
何もないはずがない。
毎日菜月を訪ねる龍、どこか違和感を感じさせる愛さん、俺にあからさまな敵意を向ける春奈、
菜月に大切な人がいるとわざわざ告げに来た祐介、そして大金を手に菜月の前に現れた三上という男。
菜月を囲む全ての人が、何かを隠している。その秘密を、そして菜月自身を守ろうとしている。
「……何も、ないよ」
青ざめた顔を歪め、震える声で弱弱しく言った菜月に、心が引き裂かれた。
周りの人間がどんなに俺に嘘をつこうと、我慢できる。
だけどせめて菜月だけには、嘘をついてほしくなんかない。
こんなに辛そうな顔をしてまで、嘘をつかないでほしい。
そう切実に願うけど、この願いが決して菜月には届かない事に、俺は薄々気づいていた。
「でも、あの人お金……」
「何でもないって!」
それでも、と若干の希望を残しつつ尋ねた俺の言葉を遮り、顔を歪め荒々しく叫んだ菜月に、言葉を失う。
菜月が俺に対して、そんな風に言葉を投げつけたのは初めてで。
目の前が、真っ暗になる。
「……ごめん、一人にして」
辛そうに顔を歪めた菜月は、小さく絞り出す。ぎゅっと寄せられた眉を見て、俺は言葉を呑みこんだ。
「今は、何も話したくない」
俺と決して視線を合わせることなく、菜月は俺の腕を押して立ちあがる。
その身体をもう一度引き寄せたかった。そして、俺にその苦しい胸の内を話してほしい、と懇願したかった。
だけどそれは、きっと菜月を、そして俺自身を傷つけるだけだ。
立ちあがった菜月から目を逸らし、ゆっくりと立ちあがって身を引く。
「……分かった」
静かに、胸の痛みに耐えながら言った俺は、再度菜月を見つめる。
彼女が、俺の視線に答えることはなかった。
そっとドアに手をかけた菜月は、俯いたままドアを閉めた。
それが閉まる重い音が、俺の頭に大きく響いて。
俺は眉を寄せ、やり切れない想いに拳をぐっと握りしめた。
「なぁ」
眉をぐっと寄せることだけはしたものの、奴の顔を見る気にはなれなかった。
今は誰と言葉を交わしても、この胸にできた大きな傷を深めるだけになりそうで。
一晩経っても、俺の胸からは相も変わらず黒い血が流れ続けているようだった。
「さっきからずっと言おうと思ってたんだけど、お前、隈すごいぞ」
訝るように顔を顰めた武人は、俺の行く手を阻むように通路の真ん中に立つ。
昨日、家に帰ってから何をしたかとか、今日、どうやって学校まで来たのかとか、
その後、どんな授業を過ごしたのかとか、そんなことすら思い出せない。
「授業だって遅れてきたし……どうしたんだよ」
気遣う言葉とは裏腹に、どこか責めるような言い方をした武人を、
俺は無表情で横に押し、何も答えずに講堂の出口へと向かった。
「おい、智也!」
瞬間、腕を強く掴み引き戻される。
滅多に人に対して怒りを露にしない武人の怒鳴り声が響き、講堂内が一瞬ざわついた。
だがそれはまた、すぐにいつもの空気を取り戻す。
「シカトしてんじゃねぇっつの。せっかく人が心配してやってんのによ」
ひどく苛立たしそうに吐き出した武人は、乱暴に自分の髪を掴み、長いため息をつく。
今の俺には、本気で怒ることが滅多にない武人が怒っていようと、何をしてようと、何も感じられなくて。
全てが空回りしているように、上手く心に入っていかない。
「……また、菜月ちゃんと何かあったのかよ」
低く静かに、どこか疲れた様子で武人が尋ねる。胸の奥が、音を立てた。
「俺、昨日図書館に忘れ物して、あの後すぐ大学に戻ったんだよ。
そんで……お前が、男と喋ってんの見ちゃったんだよね」
首の後ろに手を当て、ため息混じりに言った武人は、俺の方を真っ直ぐに見つめる。
深く息を吐き出した。
「あいつも、菜月ちゃん絡みなんだろ」
探るように言ったものの、おそらく武人は確信している。
そして俺にも、これから武人が言わんとしていることが、手に取るように分かる。
だけど今は、今だからこそ、その言葉を聞きたくはなかった。
「やめとけよ、もう。どう考えたっておかしいし」
訴えるように吐き出した武人は、俺を睨みつけるように見る。
眉を寄せ、ぐっと奥歯を食いしばった。
それでも胸の底から突き上げてくる、不安やもどかしさ、痛みや疑惑、その何もかもが混ざりあった、
真っ黒な何かに抗うことはできなくて。
「信じることも問い詰めることもできねえのに、付き合ってる意味があるなんて俺には思えねえけど?」
顔を顰め、俺を責めるかのように言う武人。
それでも奴の真意が、長年連れ添ってきた友人を心配するものであることは、言われなくても分かる。
だけど……。
「それでも、俺は菜月の傍にいたいんだよ」
噛み締めるように口にして、踵を返して講堂を出る。
自分の元に心がないと分かっていても、愛する男に縋るように付き合い続ける、なんて
昼ドラによくありそうな展開を、俺はずっと馬鹿にしていた。
だけど今ならその気持ちが、痛いほどに分かってしまう。
菜月の周りの人間が、菜月の心が俺にないことをいくら告げたって。
菜月が俺に何かを隠して、いくら嘘を重ねていたって。
俺がいくら、そのことに思い悩み辛い思いをしたって。
俺は菜月のことが好きだから。
菜月から離れることなんて、到底考えられない。考えたくない。
例え菜月が、他の誰かを、俺が菜月を愛する以上に、心の底から愛していたとしても……。
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