俺と彼女と…
18


息をのみ、足を止めた。


講堂の柱に寄りかかり、切なげな表情でどこか一点を見つめる菜月の横顔が、そこにはあって。
胸の奥が、痛いほどにぐっと締め付けられる。





「……菜月?」


そっと、口に出した彼女の名前は不本意ながらに震え、不安定な響きを帯びた。
はっと顔を上げた菜月は、泣きそうな瞳で俺を真っ直ぐに見つめる。



「智也……」

俺の名前を小さく呟いた菜月は、俺に小走りで駆け寄る。




「昨日、ごめんね」


赤く充血した大きな瞳を潤ませ、苦しげに絞り出した菜月に、俺は言葉が何も出なくて。


心の中に充満した黒い霧が、迷いを生む。
彼女を問い詰めるのか、それともまたいつものように、気付かぬふりをして笑って流すのか。




「気が動転してたの。本当にごめんなさい」


眉を悲しそうに歪め謝る彼女の声は、震えていて。心が激しく揺れ動く。


菜月は悪くない。彼女はただ、俺に知られたくないことがあるだけ。何も悪くない。
じゃあ、一体誰が悪い? 誰が悪くて、こんなに俺たちは苦しむ?


結局、誰も悪くなんかない。菜月たちには、どうしても隠したい事がある。
それを俺が受け入れ、踏み込もうとせず、気に留めずにいれば、それだけで済む。誰も傷つかなくて済む。


菜月を、傷つけずに済む――。




「気にしなくていいから。俺は、大丈夫だし」


柔らかく――上手く出来たかは分からないけど――微笑んだ俺に、
菜月は泣きそうな顔で僅かな笑みを返した。





「今日、うちでご飯食べない?」


瞳に沈んだ色を残しながらも、菜月は首を僅かに傾げ微笑んで尋ねる。



「うん」

嬉しさを顔に貼り付け、明るく頷く。痛いほどに冷たい風が、頬を刺した。



「じゃあ、私五時に終わるから、校門のところで待っててくれる?」

綺麗に笑顔を浮かべた菜月に、分かったと、俺も笑って返す。



「じゃあ、後でね」


可愛らしく手を振った菜月に、俺も笑って手を振り返した。
手を下ろし、去っていく背中を見つめる。



菜月を笑顔にするために、俺にできることは何なんだろうか。
自分の気持ちを殺すことでしか、俺は彼女を笑顔にすることはできないのだろうか。












胸に滞る重苦しさを振り払うようにそっと息を吐き出すと、それは白い霧のように俺の目の前で揺れた。
鍵を出す素振りを一切見せず、菜月は自分の部屋のドアを開ける。



「あ、愛ちゃんもいる」


玄関のパンプスを目にして嬉しそうに呟き、俺に視線を移した菜月は、にこりと可愛らしく微笑んだ。
黙って頷き、微笑みを返す。



「ただいまー」


菜月の明るく弾んだ声を聞きながら、俺は玄関に入り靴を脱いだ。



「おかえりー」


和音のように聞こえてきた二つの声。それでも、姉弟だからかその声質は似ているもので。
心が緩み温かくなっていくのを感じる。



「こんばんは」


暖房の効いた部屋に入り、ソファのところに見えた愛さんと龍に会釈をする。
そこでようやく違和感を感じ、俺は眉を若干寄せた。

うつ伏せになった愛さんの上に、龍が跨っているのだ。



「おー、智也!」

「こんばんはー」



爽やかな笑顔で片手を上げた龍の声の直後、少し苦しそうにくぐもった愛さんの声が聞こえてきて。
更に眉を寄せた。




「何してんの?」

菜月はコートを脱ぎながら顔を顰めて尋ねる。



「マッサージ。愛が腰痛いって言うから」


仕方なく、とでも言いたげに唇を尖らせて言った龍に、愛さんがやる気なく首を上下に動かす。



「なんだ。なんちゃってバック的なものかと思った」


悪戯っ子の少年のような表情で、にかっと笑みを浮かべた菜月に、俺と龍は同時に噴き出す。



「お前はなぁ! 彼氏の前で下ネタを言うでない!」


呆れ返った龍に、愛さんが声を上げて笑いだす。


「全く菜月は相変わらずねー」

ころころと目を細めて笑う愛さんに、菜月は口を尖らせる。



「もー、愛ちゃんまで……。別にいーでしょっ」


拗ねた子供のように言った菜月の幼い可愛らしさに、俺は思わず笑みを零す。



「ドン引きされんぞ。んなっ、智也」


にやりと笑った龍に突然同意を求められ、俺は苦笑する。



「別に俺はいいけど」



普段の生活や、セックスの時でも見ることができない、大胆でどこか少年らしさも持つ菜月。
そんな菜月でも俺は引かないし、むしろ特別な菜月を知れたような嬉しさだってある。




「ほぅら見なさい! そんなちっちゃいことで私たちの愛情は変わらないんですー」


俺の隣にぱっと駆け寄り、ぎゅっと俺の腕を抱きしめた菜月は、勝ち誇った表情で龍を見る。



「けっ、のろけてんじゃねー」


いーっと食いしばった歯を見せた龍に、俺も菜月も笑い声を上げる。
だけど一瞬、愛さんの表情が曇り、その瞳にはっきりと悲哀の色が映ったのを、俺は見逃さなかった。



「別にいーでしょ。あんたも彼女できたんだし」


すぐにいつも通りの、余裕ある大人の笑みを浮かべた愛さんは、
肩越しに自分に跨る龍を見て宥めるように言った。

その彼女の言葉に、俺は目を丸くする。




「えっ、嘘! 誰よ! どんな子っ?」


一瞬にして目を光らせ飛び付いた菜月に、今度は龍が勝ち誇った笑みを浮かべる。



「モデルやってる子よー。それもなつより年下のっ」


語尾にいちいちハートを付けそうな勢いで、ふにゃふにゃに溶けた顔で言った龍に、
菜月がぱぁっと笑顔を浮かべる。



「良かったじゃーんっ。おめでとー」


目を輝かせ、弾んだ声で言った菜月は、ソファの横に座って龍を叩く。
その菜月の心底嬉しそうな表情と、龍の幸せそうな表情を、俺は押しつけるように心に焼きつけようとする。




「ま、長続きしないだろうけどねー」


眉を上げて、おどけるように言った龍に、俺は僅かに眉を寄せる。
その瞳の奥が、陰ったのを見た。



「えー、頑張んなよー」

「無理だよ」



龍が見せた色に気付かぬまま、明るく言った菜月の声に、冷たいともとれる龍の言葉が重なった。


すっと、一瞬にして部屋の空気が冷たくなる。
愛さんは切なげな表情で唇を結び、菜月は泣きそうな瞳で龍を見つめたまま動かない。





「頑張ったって、無理なんだよ」


見たこともないような辛そうな表情で、小さく言った龍は、眉をきゅっと寄せ、
ソファから離れて俺たちに背を向けて窓際に立つ。

大きく息を吐き出す音に、菜月の顔が更に悲しげに歪められた。




「……ごめん。無神経だったね……」

弱弱しく呟いた菜月の声に、胸の奥がどうしようもなくざわつく。


埋まってほしくないパズルのピースが、また一つ音を立てて嵌まった。





「そんな深刻になることないでしょー。智也困ってるじゃない」


沈んだ表情で黙り込んでいた愛さんが、起き上がり明るく言う。


「……だな! ほれなつ、そんな陰気臭え顔してんな!」

菜月の傍に寄り、目の前に座り込んだ龍は、菜月の頬っぺたを摘みにっと笑う。



「……うん、だね」

力なく、それでも菜月は笑顔を見せて頷く。

心の中に、暗闇が渦巻いていたが、無理矢理にそれを押し出す。





「夕飯作るね」

綺麗な笑顔を作り言った菜月に、龍はにかっと笑って頷く。



「手伝うよ」


優しく言った愛さんにありがと、と返し、菜月はキッチンへと向かう。




ぐっと奥歯を噛み締め、込み上げてくる何かを堪えた。






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